絵を描くときに完成形をイメージしてから描かない話とイメージが平面でしか思い浮かばない話

絵を描くとき、描く絵のタイプにもよるんですけれど、完成形をあんまりイメージしていないことが多いのです。

描くことそのものが楽しいので、とりあえず作業に没頭してひたすら描いて、そして時々ふと我に返って俯瞰したときに「おお、こんなんなったか」と楽しむ、それを繰り返す、という偶発的・場当たり的な描き方が多いです。

マンガ絵みたいなタイプならば先にネタありきだったりするんですけれど、それもおおよそであって、表情とかポーズとかの細かいところは、描きながらその登場人物と相談、という感覚です。

最初からしっかり完成形が見えていて、仏像を彫り出すみたいに描ける人、すごいなあっていつも思います。
あれは多分、イメージをそのまま線に変えられる確かな画力と、ディテールまで事細かに頭に浮かべられるイメージ力があるんだろうなあ。

私はそこらへんがないので、その素質のネイティブとは別のやり方をとらないと、いい絵が描けないと思って。
それで今は、自分の持ってる性質がちょうどいいや使ってやろーと思って、「集中→虚脱、集中→虚脱」の波(私の場合は調整さえ取れればそこまで大波ではない)を利用して描くやり方をやってみているという感じです。
まあまあ向いているっぽいなあ。 と感じています。そりゃそうです、生来のもの使っていますから、これが私の母語。ここでは私、ネイティブ。

それとそれと、私、頭に思い浮かぶモチーフや構図が、立体でなく平面であることが多いんですよねえ。

たぶんなのですが、私は空間認知能力が絵描きとしてはあんまり高い方ではないと思うので、そのせいでそうなるんじゃないかと想像しております。
これも、突き詰めれば面白いような気がする。
「奥行きという概念を一切排した、完全なる二次元として表現される世界観」って、極めたら絶対おもしろいですよね。すごく日本人らしいと思うし。

これは、
「空間認知能力が高い・低い」
という優劣ではかる必要のある概念ではなくて、
「立体派か平面派か」
でいいと思います。個人的に。

現状、絵のことに限らず個人の性格や能力についても、優劣という軸で考えなくていいものまで優劣で語られている部分がいくつかあると思っているんですね。
それだと、最終的にみんな一緒になっちゃう。みんなが「優」のほうを目指さないといけないことになってしまうので。

今「優劣」で語られていることの多くが、「●●派」で言えばいい事なんじゃないかなって思います。
何が偉い、誰がすごい、って、結局個人個人の胸の中にあることでしかないですから、正解とかないですし、「これが正解」と決め打って断言する人に話を合わせる必要もないし、「こうじゃなきゃ偽物」ってものも特にないかと思います。

ただ現状、だからといって自分に最適な派閥を自由意志で選んで生きていけるかと言うと、選べないです。
まだ、「違う」ということを「劣る」と認識する向きは強いし、違うということを許さなかったりせせら笑ったりする人も多いし、自分らしく生きようとするには強い反骨精神や根性が必要というのが、実際のところだと思います。

とりあえず今、私にできることとして、最近は自分の能力を恥じることをやめた。
「ただただ、自分はこうであるし、こうでしかない」
劣っている、とはなるべく言わないようにしました。

人に作品を認めてもらえないときは「私は劣っているのだ」ではなくて、「この場にはフィットしなかったな」と考えることにしました。
ヤダ私ったら場違いだったわウフフ★です。
そのままで、発表する場所を変えればいいのです。

※これは、ある程度こころの状態が安定して精神的に余裕ができないと多分ものすごく難しくて、下手したらほかのどんなことよりも難しくて、出来ないならダメだということはまったくないです。
そんなこととてもじゃないけど思えないというときは、とにかく可能な限りゆっくりと休んだほうがいいです。
畑は、元気な者が耕しておくので、今しんどい人が無理をするべきではないです。

この謎の自信を、誰が馬鹿にしてこようが、努力不足と言われようが身の程知らずと言われようが、ずるいと言われようが、私は「自分」をやります。

外側は、TPOだけはわきまえて、社会の中でやっていくための人間しての良識はきっちり持って生きる。それでいて、自分が自分たる遊び心を、誰にも何にも染めずに大事に大事に持っておく。
自分らしく自由に生きる事って、人の気持ちも迷惑も考えずに傍若無人に振る舞うことではないので、そこは履き違えてはだめ。
難攻不落の自分だけの城を、自分の内側、中心に持っておけばよいだけです。他人が不快になるような振りまき方をする必要はない。

そして、自分が自分として在ることを根本的に否定してくる者があれば、そのときは外からわかるほど強く怒るべきだと私は思います。
それで怒ることは全くダサくないし、幼稚でもないです。みっともなくもなんともないです。

あーあ、なんでもかんでも優劣で語られる時代、はやくおわんないかなあ。
「違って当たり前、『違う』ということが『劣等』と捉えられない、ただし一切何のステータスにもなりえない」という世界になったら、わし、まあまあ強いで。

ほんまか?

うそかも。

ばいびー。