きのこの一日

私は、朝、だいたい6時半から7時ぐらいに適当に起きます。
起きます、と言うよりも、お腹をすかせたうちの愛らしい白いねこのもっぷに顔をテチテチとやられ、起こされます。

起きましたら、とりあえず水など一杯飲みまして、トイレを済ませ、朝食をとります。
朝食はいつも納豆たまごごはんと、インスタントお味噌汁と、冷奴です。

うちの愛らしいキジトラねこのうずらがこのあたりで主人の部屋から起き出してまいりまして、カリカリをたべ、大きい爪とぎにそのたっぷりとした腹を横たえて休みますので、ここでうずらを嗅ぎます。
そして、そのあとゴミ出しをします。

その後は、気分によって少し休みがてらテレビを見るときもありますが、だいたいはテレビは消してPC机に向かって、絵を描く、ブログを書く、自分のウェブサイトをいじるなどを行います。

そうこうしているうちに、定時にかけておいたアラームがピロピロと鳴りますので、私はそれで作業から我に返り、シャワーを浴びて服を着替え、支度をして、お昼前に仕事にでかけます。

仕事が終わりましたらいつも同じスーパーに寄り、晩ごはんの材料を抱えて家へと戻ります。
鍵をあけて、ドアをひらくやいなや、うちの愛らしいねこのもっぷが飛び出してまいります。少し遅れて、うちの愛らしいねこのうずらと、今は専業主夫をしてくれている主人がひょこりと顔を出して、出迎えてくれます。

家に入り、服を着替え、買ったものを冷蔵庫にしまいましたら、冷蔵庫によく冷やしておいたレモン・かぼすを漬けた焼酎と、これもまたよく冷やしておいた炭酸水を、たっぷりと氷を積んだタンブラーへと注ぎ、ぐびりとやります。

その儀式を終えましたら、私は自分の定位置であるPC机に座り、朝のように、絵を描く、ブログを書く、自分のウェブサイトをいじるなどを行います。

20時くらいになりましたら、晩ごはんを30分ほどかけて作り、食べます。
そしてまた定位置にもどり、絵を描く、ブログを書く、自分のウェブサイトをいじるなどいたします。

22時半か23時くらいになったら定位置の背後にあるふとんへ入って、電気を消し、スマートフォンなどいじりながら、だいたい0時かそのぐらいにはいつの間にか寝ています。

そしてまた朝がやってまいります。

休みの日も、仕事がないだけでほぼ同じように一日を過ごします。
雨がふらなくて暑くない休日などは、お昼ぐらいに一時間ないし二時間ほど夫と連れ立って公園へ散歩に出ますけれど、それ以外、レジャーへ出かけるようなことはほとんどございません。

私は、毎日同じ流れで、昨日と同じ今日、今日と同じ明日を生きるのが好きで、今日はあっち、明日はこっち、今日はこういうタイムテーブル、明日はこういうタイムテーブル、と生活内容が日々変わるスタイルは、あまり得意ではありません。
それをすると予定管理のために貴重なワーキングメモリを割かなければならなくなるからでしょう、しばらく続くと頭に余裕がなくなって、精神的に荒れがちになってしまうのです。

見ての通り、私は家事をゴミ出しとごはん作りしかしておりません。
私の仕事は一日5時間、週5。土日祝がおやすみで、残業はほぼない、というかしろと言われても一切しません。定時で帰ります。

以前は夫が大黒柱をやってくれておりましたので、このスケジュールに苦手な家事をねじ込んでおり、私の少ないキャパシティはいつもオーバー気味だったのですけれど、今は夫が家を守ってくれておりますので、特に私が大の苦手とする食器洗いを買って出てくれていることは非常に助かります。
洗濯物をたたむことはふたりとも苦手なので、いつも山になっておりましたけれど、さっき打ち合わせて、取り込むときにハンガーのままつるすことにしました。華麗なる解決です。
掃除は……家に人こないから散らかっててもいいです、いいんですよ、いいっつってんだろはったおすぞ!!!

このしたは、「またかよ…」な文句なので、読みたくない人は読まないでね。

こうした生活について、あるいは私の「楽しい」を主体にした芸術への向き合い方につきましても、「だらしないのはよくない」「いい大人なのだから●●ぐらいはしなければ」といったお声を頂戴することもございます。

しかしながら、「一般的に当然とされていることを遂行できる」という線を目指すことをやめて、自分と夫とねこたちがそれでいいならばいいはずだと考え、自分たちが一般水準でないことを気にしないようにしてから、非常に精神が衛生的なのです。
ですから、私はしばらくこのまま行ってみて、なにかあれば都度、微修正をかけていこうと考えております。

そしてもう一つ。
こうした、他者になにか迷惑をかけるわけではない選択に対して「だらしないのはよくない」「いい大人なのだから●●ぐらいはしなければ」等々と、言ったり書いたりせずにはいられない人の心理についてです。

これは、私がより良くなるように助言してくれているものではありません。
「自分はこいつよりも優れているしこいつより正しい。それを感じたい、確かめたい」
という行動でしかないのです。

そういった方は、自分の言うことを聞かなかった人に対してはこう思っています。

「コケろ! 嫌われろ! 不幸になれ! 失敗してしまえ!」

そうなれば、自分が正しい、自分が上だと証明されるから。
「だから言ったのに」が言いたくてしょうがないから、まともに相手されなくても、SNSならブロックされても、ずーーーっと粘着して、関わりにくる。見にくる。
そして、コケるのをずっと待っている。指差して笑ってやろうと。
一度は見下した人間が自分より幸せなのは、許せないみたい。

だから、自分が見下している人間がちっともコケないことに苛立って、「あいつをコケさせない世界はおかしい」と、世の中そのものを叩くしかなくなる。

私の不幸を待ちわびて、私の幸せに地団駄を踏むような性根の曲がった人間の言うことなど、聞く必要がありましょうか。

私は、ポジティブな助言なのか、心底に上記のような思いがあるのか、それがわからないほど鈍くありません。
親切心も、見下しも、わかります。
ただ単に、今までは人間としての自信を持てなかったがために、人に巻かれるがまま巻かれたり、「こんな嫌なヤツにも、家に帰れば親がいるから…」と考えてしまう傾向があっただけです。
性格としては、お人好しでもないし気が弱いタイプでもありません。

「こういうおかしな気質の奴はどうしてもいるから、そういう弱味をバラさないようにすれば、アレコレ言われはしない。自衛すべき」
確かにそれは正しいのですが、別に悪いことしているわけでもモラルに反することを言っているわけでもないのに、なぜ性根の腐ったようなやつのために自分を隠し、自分の表現を制限する必要があるのでしょうか。

私はそれをしませんし、「だったら変な奴にアレコレ言われても仕方ない、気にするな、強くなれ」という理屈にも納得しません。
そんなのがまかり通ったら、気が優しくて弱い人間は唇を噛んで耐えるだけ、負け続ける社会のままじゃないですか。

「ただ意見や生き方が違う」ということが尊重され、だから平和的に棲み分けるというのが多様性であって、「相手を負かしたい、誰よりもえらい人間でありたい」と考えて人様を足蹴にしてでも自分を持ち上げようとする者は、何度でも申し上げます、性根が腐っている。

こうした人間にアレコレ言われて黙っている必要はないし、何も仕方ないことではありません。
非常におかしなことであり、しつこくても何度でも反対意見を申し上げるべきことです。
性根の腐った奴は、最低でも自分の性根が腐っていることをまず自覚するべきです。そして、そこから、そのすっからかんの「自分自身」を立て直せばいいんじゃないですか。誰をも足蹴にせず、自分単体で自分は素晴らしいと世界に証明してみせればよろしい。
それができないならそこまで。

でも、私がこうして文句言っている対象の人、文章読めない人たちなんですよね。
自分の中のハイライトワードだけしか頭に入ってなくて、曲解オブザ曲解するんですよ。だからあんまり伝わらないと思いますけど。
本読まないを自称してる私にすら読解力負けてたら、みっともないですわよ。

ぷんぷくぷん!