普通の子にも 普通じゃない子にも なれなかった話

私は、普通の子 としても、普通じゃない子 としても、足りなかった。

どちらにもなりきれなくて、どちらのカーストでも最下位だった。

普通の子 の島では「おまえなんか普通じゃない」
普通じゃない子 の島では「おまえなんか普通だ」

いつも仲間はずれで、なんだかさびしくて、そのうち「誰かと一緒じゃないとさびしい」と思うこと自体を、やめた。

そして、誰かといても心はひとりのまま、へらへらしながら、世界をじーーーーっと見てた。

世界にはいろんなひとがいて、その全員に、ひとと違うところと、ひとと似ているところがあった。
私にも、ひとと違うところと、ひとと似ているところがあった。

そして、普通の子の島では「ひとと違うところ」をけなされる。
普通じゃない子の島では「ひとと似ているところ」をけなされる。

へまをして怒られながら、馬鹿にされて笑われながら、それでも私はこの世界にいることが好きだった。
気を病んで、「私がこの世界にいることはとんでもない迷惑である」という頭になったときもあったけれども、そのときは、自分にとっては紛れもない事実だった「いちゃいけない」がすごく悲しくて、たくさん泣いた。
この世界にいたかったから。

「普通の子」でも「普通じゃない子」でもない、中途半端な私は、どうやったら誰にも迷惑かけずに、自分も楽しい気持ちで生きられるか。
頭が鳴るまで考えた。

苦しいうちは、なんにも答えは出なかった。
仕事がみつかっても、結婚しても、出なかった。
むしろ、迷惑かける相手が増えてよけいに苦しくなった。

たくさん、問題も起こした。
起こしたし、起きた。

ずっとしんどかった。
私はもうずっと、死ぬまでこのままで、たまにあるほんの少しの喜びをエサみたいにして、ただ耐え続けることが人生なんだろうなあと思った。

それは、私が普通じゃない子ではないのに普通の子みたいにがんばれないのが悪いから、もうこれで仕方ないんだ、と思ってた。

でも、世界と自分をじっと見つめることは、やめなかった。
心のどこかで「こんなのおかしい、ずっとこんなのいやだ」って、諦めきれていなかったんだと思う。

病院に行ってくすりを飲んでいたのだけれど、たまたま体に合うくすりに会って、頭が回復していった。
これが躁転ではないのか、自分でも少しおそるおそるだったけれども、今のところ1年近く状態がよいままなので、「これは単にうつ状態がよくなっているんじゃないかな」というお医者先生のお墨付きももらってる。

そうして少しほどけた、このろくに知識のない頭を使って、今までじっと見つめてきた世界を、今度は「考えて」みた。

どこの島にいっても、「その島では足りてないひと」をけなす人はいて。
そうやってけなして馬鹿にする人たちはみんな、自分がなかった。

いつも、「自分は人に比べてどうか」ばかり気にしていて、自分の中の尺度を持ってなかった。
「人と比べて」上に立てるような何かがある、という状態じゃないと立っていられない人たちだった。

そういう人たちは、私のことを最初は褒めてくれても、それは「便利に使えるところ」を買ってくれているだけで、利用価値がなくなると、手のひら返したみたいにものすごく馬鹿にしてきた。
そんで私が怒ったらそこも馬鹿にしてきたので、馬鹿にすんのもいい加減にしろ! っつって、追っ払った。
そしたら、なんか取り巻きに悲劇のヒロインみたいな事言って、被害者ヅラしてた。こういうときも、また「人にどう見られるか」だった。

けなしてこない人たちは、だいたいみんな、ひとりぼっち。
自分の中に定規をもっていて、だから、揺るがない。
ひとりぼっちって言っても、ちゃんと人と仲良くできる。人に気を遣うっていうことはちゃんとできる。

すぐばかにしてくる人みたいに「自分の言動を他人にどう見られるか、どう評価されるか」を気にしてるんじゃない。
気にしてるのは「自分の言動を他人がどう感じるか、どう影響を与えるか(与えてしまうか)」。

これは、決定的に違う。

そしてこの決定的な違いは、外にある定規でしか物事を測れない状態では見えない。
少なくとも、自分の優位性を誇示するために、あるいは自分が存在するためには人をこき下ろしたり馬鹿にしなければならないような精神状態では、絶対にわからない。

普通なところと、普通じゃないところがある。
みんなそうで。
そして、どこが普通でどこが普通じゃないか、それがみんな違う。
その違いを、どれぐらい抑えて周りと合わせていけるかという力も、それぞれ違う。

それにランクをつけてるような世界は、もういい。

「普通」を押し付けられるのも、「ひとと違う」というのを凶器みたいにして誇示するのも、いらない。

私の「人がそのまんまで生きられたら」というのは、このように言ってるだけです。

また。