技術も知識もないのに謎の自信がありますと言えるようになってきた話

自分が、自分の作品に対してある程度の自信を持って「技術的に上手いわけでは決してない(謙遜ではなく冷静な分析として)ですが、自分ですごく好きだし、総合的にはすごくよいと思っています」と言えるようになるなんて、思いもしませんでした。

「自信がなかった」というと、やや語弊があると思います。
本当に自信がないのなら、ひょいひょい公開しないような気もするので。

自分の中に鎮座する謎の自信を、人に悟られるのが怖かった。
自分程度のレベルの人間が、自分の作品をして「誰かに響いてほしい」などと思っていることが他者に知られるのが恥ずかしい、という感情があったと思います。

私には、知識も技術もありません。
絵にしても音楽にしても、趣味そのものが一点集中型で幅が少なく、ボキャブラリー豊かとはいきません。
また、性格的に「楽しいと思えない行動に対しては熱が出るぐらい嫌がる」という部分があり、「めんどくさいけど、楽しい!」と思える努力でないと、できないです。

その点について、つくる人間としてかなりのコンプレックス持っていた私は、常にこう考えておりました。

「この程度の吸収力しか無い自分が作った作品など、どう考えても大したことがないはずだし、これを自分で悪くないと思う自分の感性もまた、ダメなんだろう」

それが変わってきたのは、いつぐらいだったかなあ。

急にじゃなくて本当に少しずつなんですけれど、芸術に対する向き合い方と言うよりは生き方そのものに対する考え方として、少しずつよい方向に変わっていったと思います。
いろんなしんどい出来事を経て、たくさん悩んで、今はひとまずこの考え方で行ってみようかなと自分で納得できる、自分で選んだ道です。

「他者の基準にとらわれない」ということと、「自分に合わない努力のしかたをして頭をすり減らすことはしない」という部分をなるべく心がけました。
「誰かに比べて自分はどうか」という考え方を、思いつく限りやめていきました。
自分に言い聞かせるために、このことは頻繁にnoteやブログなどに書いて、読み返してみてたしかめて、を繰り返しました。

自分以外の誰かが作った合格ラインを必死に追うのをやめて、自分が最初から持っていた、どこかに押し込めてホコリを被っていたハードルを、心にドカンと置きました。
そして、それを超えられたなら合格、それに届かないならやり直し。考えることはそれだけにしました。

そのハードルは、飛び越えてもいいけれどよじ登ってもいい。
くぐってもいいし、場合によっては適宜殴り倒してもかまいません。
余裕で飛び越えられるようになってつまらなくなったら、高さを増します。

周りと比べた時のレベルの低さとか、誰かに見下されている事がわかっている恥と悔しさの気分とか、完全にその概念を排することはまだ出来ていないですけれど、自信を表沙汰にすることはできるようになってきた。これは進歩と考えています。

かと言って、私は人間社会に生きていますから、自分の世界に閉じこもりすぎるとまた別の問題が発生します。
なので、個人としての部分と社会の一員としての部分、このバランスをよくよく吟味して、色々挑戦してみて、失敗もすることかとは思いますが、まだ人生ありますから、より自分に丁度いいところで頑張っていけたらいいなと思います。

たとえば私は音楽に詳しくはないし、あんまりたくさんのことを知る脳の余裕がない人間だけれども、音楽をインプットしないと音楽をアウトプットできないわけではないと思います。
絵も、文章も、そうだと思います。

出来事、感情、景色、雑踏、生活のすべてがインプットになり得て。
その発露の手段として音楽を選ぶ、絵を選ぶ、言葉を選ぶ、というのはあるし、音楽をやるから音楽に詳しくないといけない、絵を描くから絵に詳しくないといけない、というのはあくまでも技術面での幅の広さを養うものであって。
それはもちろん、すっごく、すっごく大事なもので、仕事としてやってくなら責任として知識は必要で、私も過去にライブハウス音響とブライダル音響でお金もらってたのでそれは認識して勉強もいっぱいして、最低限の知識は持ったその上で、

「私は私のやり方でやってみてるところですので、このやり方に対するお口出しは、結構です。」

これをはっきり言えるようになるまで、長い時間がかかりました。
そう、「やってみてる」なんです。必ず成功する方法をとる、なんていうことは、私には出来ない。

そのうえで、私は今、絵画コンテストに出す絵をちまちまちまちま、一生懸命描いています。
他者の基準にとらわれない、と言いながらコンテスト出るって矛盾してる?
そうでもないと私は思います。

人は必ず矛盾します。その矛盾の仕方が、その人です。
その人が長い目で見たときにどういう矛盾のしかたをしてるかで、その人が本当はどうしたいのか、芯の部分が見えてくるというものです。
五十嵐さんだってテレビぶっ壊したと思ったら最終回のドラマでボロボロに泣いてみたり、そのあとまたテレビなんてバーストしたりしてますでしょう。
矛盾した感情のその先っちゅうもんがあるんですよ、人間には。
たとえば、今日は白と言ったもんを明日は黒と言うような人は多分誰かと戦っていて、その人に勝ちたい・論破したい一心で自分の考えなどなくその場限りで言ってるんでしょうし。
芯のところで「こうしたい」と思うものがあれば表面は多少矛盾することでしょうし、表面を矛盾させないということに固執していたらつまらない。

私は、人に受け入れられたいですよ。社会に迎合したいです。一匹狼がやりたいわけじゃないので。
でも、無理はしたくないです。人に迷惑をかけない範囲で、自由にやりたいです。
それならば、無理していない素のままの私の作品を「おっ、いいじゃないか」と思ってくれる人に出くわしたら、両得でサイコーじゃないですか。
だからコンテストに出してみて、運良くフィットする人いないかな〜って期待しているんです。

その絵も佳境です。
今進捗、5割ぐらい。
あせるな〜〜〜〜。ゆったりコーヒー飲みながら見る絵だぞ〜〜〜〜〜、焦って描くと見る人まで焦らせちゃうぞ〜〜〜〜〜。

よし、言い聞かせた。
では作業に戻ります。