とりとめもない話

死にたくないけど、自分が、自分の意思とか周りの人の私に関する記憶とかが全部消えて最初からいなかったことになるならそれが一番だと未だに思っている話

私は、死にたくないけど、自分が、自分の意思とか周りの人の私に関する記憶とかが全部消えて最初からいなかったことになるならそれが一番だと思っています。

一番なんだけれども、それは事実上ありえないし、自死となってくるとただただはた迷惑でしかないことを認識する冷静さとゆとりがある比較的健康な状態であって、また、人生にときどき起こるおもしろいことにすがる気持ちもあって、今の私には結局生きていく以外の選択肢はないんだなあという諦念と、いっそすべてかなぐり捨てて全部終わりにしたら潔くてカッコいいのにという履き違えた人生観を未だに麻袋に詰め込んで引きずりながらのまま、34歳、なお生きております。

私が最初からいなかったのであれば、当然、誰ひとりに対してもいかなる影響も与えることはなかったということで、それが本来の社会通念上望ましいことである、という思いは今も色濃く残り、ただ私がいま、まるで執行猶予期間のように「本来であれば懲罰があるべきだけれども、情状酌量の余地を考慮し、自由な生活が許されている」といったマイルドな自罰感情を以て、自身の心をゆるしているような状況です。

私が「これは、私は今すぐにいなくならなければならない、それが正義である」と強く思い込むとき、私の精神には同時に、必ず不満が存在します。

「そんなのは、あんまりだ。納得がいかない、私ばかりがそんな不利益をこうむる筋合いはない。不愉快だ。」

このように、ちゃんと不満感を覚えているのです。

ですが、自身が感じたこの情動に対して、きまって私は強い嫌悪感と罪悪感をおぼえ、とっさに、「私程度の人間でありながらこんな不満をおぼえてしまう私は社会において非常な害悪である」という思考に変換され、自失の状態をまねいていました。

これに気づいた時、「ここだ」と思いました。

自身を鑑み、ひとの迷惑となる点を反省し、ダサい病気したがりと捉えられるような言動を排除し、それらの点を改善する中で、「当方にも都合や苦しさがある」という考えを、あまりにも手放しすぎていました。

こういった土台を持って生活をしていた場合、「『何にも余計なこと言わない私』が好かれているだけ」という本来あるべき形ではないいびつな交友関係が発生する場合があり、これを改善、改善できないのであれば解消、しなくてはならないつらさなどに翻弄されます。

また、「自分はかんぺきな対人対応などできない、それは目指すべきではない、せいぜい4〜50点が取れれば御の字と考えなくてはならない」というハードルもあります。

これらは、「対人関係だけは、完璧に処理しなくてはならない。でないと人様へのご迷惑となったり、不快感をおぼえさせる原因となってしまう」という思い込みが非常に強い私にとってとても高いハードルであり、今も完全に飛び越えられてはいません。

ですが、ほんの少々、ゆるく考えられるようになってきてはいると思います。
ですから、「これは、私は今すぐにいなくならなければならない、それが正義である」と前後不覚になるほど思い込むことも減りました。

減りましたが、ゼロではありません。
それでも、私と似た考えを持ちながら、毎日それをなんとかいなして日々を生きている人たちがなんとなくそれとなく近くにいてくれているのを感じて、なんとか上手いことやっているといったところでしょうか。

たぶんですけれど、私の「自分が生きている、存在している」という点に対する罪悪感が完全に消える可能性というのは、これは、今後もあまり期待できるものではないのだと思います。

今は非常に調子がいい状態なのですが、それでも、本当に小さな、取るに足らないような失敗をうけて「ああ、もうだめだ、今すぐこのカーテンレールにギターシールドを吊るして、」という考えに陥ってしまうことが多々あります。

ただ「それはいけない」という抑止力がきちんと働いているから大丈夫なだけです。

この抑止の力すら働きにくくなった人も、タイムラインにはたくさんいらっしゃいましょう、それが一体いかばかり辛かろうかと、思わず涙の落ちるように想像する次第です。

みんな、無理、せんとこうな。

じゃ。