作品と人がどうも切り離せないんだよなあという話

あまりよくないことんだろうなあとは思っているのですが。
作品と作者を完全に切り離して考えるの、私には、少しむずかしいんですよね。

ただ、順序として「どうしようもないほど作品を好きになった」が先に立っていると、そのアーティストさんが多少いやな動きをしていたとしても流してしまうところはあります。

ただ、このご時世、自分でSNSを使ってセルフ宣伝を行うわけじゃないですか。
そうなるとやはり、作品のみならず全体的な雰囲気/イメージみたいなものも、嫌でも目に入ってくるんですよね。

これは「これから触れるアーティストさん」を「作品よりも先に、発言や行動を見た時」に関してだけの話なのですが、
「この人、いやな奴だな」と思った人の作品は、正直、視聴を避けてるんですね。どんなに「この人は良いものを作ってる」と噂になってたとしても。

でね、SNS時代だから、そういった「作品を見るより先に、その人の人柄を見かける」っていうパターンが今非常に増えているわけですよね。
昔みたいに、あくまでもアーティストとして本とかで作品だけがフィーチャーされるわけじゃないから。

暗くてもいいし、破天荒でもいいし、不健康でも不器用でもいい。
ただ、「人間として不快な、いやな奴である」というのは、結構まずいと思うんですよ。
あくまでも、これからの人に関しては でしかないですけど。

だからといって「教科書どおりの、道徳的ないい人であれ」というわけでもないのですよ。
なんと表現したらいいのでしょう。
「不快な人間には、不快な感じのお客さんばっかりつくよ」
という表現が私の言いたいことに近いかもしれません。

暗くて不器用だけど繊細でやさしい人には、暗くて不器用だけど繊細でやさしい雰囲気のお客さんが集まるでしょうし。
歯に衣着せぬ物言いをする人には、歯に衣着せぬ物言いをしたいタイプのお客さんが集まるでしょうし。

もちろん、100%じゃないですけども。

「作品ありき」であるためには、がまんしなきゃいけない発言やふるまいも、あると思う。
なんべんもいいますが、不器用でも全く問題ないと思うんですよ。必ずしも正しくある必要もないと思う。

それに、ときにはどうしてもがまんできない一言もあると思うし、キツイことでも言わなきゃいけない日も来る。
ついうっかり、ポロッと間違えてしまうときもある。
だから、「ある特定の行動をした奴はその時点でアウト」とか、そういうのは、極論「無い」と言っても行き過ぎではないと思うんですよ。
とにかく時と場合による。

だけれども、Twitterとかでウケるからって必要でもないのに口汚い批判や苦言など繰り返したりね、明らかな差別・偏見、軽い気持ちでの差別用語などの連発っていうのは、私はせっかくの作品を汚す行為だと思いますね。

なんかこれウケるな〜って喜んでいるうちに、「この人の作品は本当にすてきだなあ」と思って見てくれていた良識あるよいお客様たちが、黙ってそっと去っちゃいますよ。
苦言呈してくれる人なんてそうそういない。
だまーって、「だめだこの人」っつって、いなくなってって、気付いたら周りには、そんな低俗な発言で喜ぶような同じ穴のムジナしかいなくなる。

たまにポロッと出ちゃうのを重箱の隅つつくのはこれはこれでまた違うんですけど、恒常的にやっちゃってる人は、もしかしたら考えたほうがいいかも。って思う。

変なやつは楽しいけど、いやな奴はいやです。私は。

そういうのが好きな人もいるとはおもいますけど……。

いやでも、いろいろありますよね。
どんなに必死に生きようと思ってても不可抗力的にクズなことやっちゃうときもありますよね。
でもやっぱり、自分の醜さを、身ぎれいでいられるようにがんばっている人を叩くことで正当化するのは、やっぱりよくないね。

なんかそんな考え事をしましたね。