なんぼ説明されても、芸術を「いい・悪い」の単一軸で語ることを了承できない(それは好き嫌いやん)という話

これまで、私は、結構色んな人に「これこれこうだから、やはり「いい作品」「駄目な作品」というのはあるんだよ」と説明されてきました。

しかしながら、そのどれもが、私にとって納得のいく説明ではありませんでした。

よって、今日はここに「なぜ、私はタイトルのように思っているのか」を、いま言語化出来る範囲でなるべく細かく、記してみようと思います。

例として、音楽で語りますね。

たとえば、

「個々の演奏レベルはどうか」
「アンサンブル感はどうか」
「表現力はどうか」
「楽曲の完成度はどうか」
「新しさや懐かしさはどうか」

などの細かい要素に分けた上で、それぞれに点数付けをすことにおいては、よい・悪いという評価方法になるのもわかります。

それに、こうした批評であれば、見る側もうれしいですよね。
そのアーティストの方向性がどんななのかわかるので、自分の好みに合うかどうか判断がつきやすい。

例えるならば、自分にとっておいしいお米を買いたい時に、
「このお米はもっちり系なのか、それともパラッと系なのか」を様々な観点から「★いくつ」で評価してくれるなら、それは見る側として助かるよね、ということです。

しかしながら、「いい音楽」「駄目な音楽」というざっくりとした単一の評価軸でもって、ろくな説明もできずに押しつけるのであれば、それは違う。

それは「あなたの好き嫌い」の域を出ない。と私は考えるわけです。

それと、もう一つございます。

「いい・悪い」という単一軸の評価では、「聴く人側の個性」が無視されているんですね。

たとえば、マイクやスピーカーに周波数特性があるように。
個人個人、それぞれ、よく聞こえる周波数には差があると私は思います。

また、その人その人に人生があり、背景があります。
何ということもない歌が、人生の中でいちばん大切なものとなることもございましょう。

「いい・悪い」の単一軸で芸術を語ることは、そうした「聴く側の人の、それぞれの都合・思い・好み」を完全に無視した、とても乱暴な手法であると、私は思うんですね。

評価をつけたいのであればやはり、たとえば「演奏レベル:★★★☆☆ 表現力:★★★★☆」のような、「この評価は、これを指標にしてますからね」ということをなるべく多角的に、かつしっかりと明確にすべきと私は考えます。

感受する際に個人差の大きいもの、数値化出来ないものであるからこそ、可能な限り慎重に、そして労力をかけて明確に、公平に、ジャッジすべきだと思うんです。

最近のTwitterなどで流れてくる批評まがいの文章には、それがすっぽりと抜け落ちているように感じました。
軸を明確にしないでいい・悪いで語るため、なんとでもこじつけて言える。
これでは何の責任も伴わず、好き放題言って「自分の好みこそ最高なんだ」とうそぶいているだけです。

批評文化というものが、ただの自己顕示欲にまみれたヘイトに成り果てては、芸術そのものが冒涜されます。

馴れ合いたいから批評を避けているのではありませんよ。
とれる責任の範囲でものを言っているだけです。

まとめ。

「単一軸で語るなら、好き・嫌いでしかない」
「いい・悪いで語りたいなら『何の軸で評価しているのか』を明確にすべし」
「また、その軸はなるべく多いほうがいい、可能な限り多角的に語るべし」

今の私がいいたいのはこの辺ですかね。

私は、音楽で言えば録音環境が悪かったり、演奏力が高くなかったり、ありきたりなコード進行だったり、みたいな作品もすごく好きになることが多くて。
そのとき「私は何でこの曲が好きなんだろう?」とあれこれ考えたりします。
一生懸命考えていくと、自然と、上記のようないろんな目線からの考え方にならざるを得ないのですよね。

インスタント批評、よくない。

めっ。