へんとふつうのハイブリッド

昨日、「展覧会に行ってすごく感銘を受けた」みたいなブログを書きました。

本当に私にフィットしている内容で、感銘を受けすぎて、いきおいで協力団体のところに書かれていた「アール・ブリュット パートナーズ熊本」さんに「仲間にいれとくれ〜」とひょこひょこご連絡させていただき、作家として所属させていただけることになりました。

ヤッター。

私は、すごく中途半端な立ち位置にあるんですね。
ふつうっちゃ、ふつう。
へんっちゃ、へん。

できないことは、本当はからっきしできない。
でも、必死でがんばれば、なんとかギリギリやれるフリができてしまうんです。ただし無理をしているので、半年ぐらいでガス欠になりますけれど。

「本当に苦しんでいる人は、もっと、完全に出来ないのだ。私は少しはできるのだから、これは甘えだ」と自分を鼓舞してみましたが、やっぱり無理なものは無理でした。

その結果、「最低限のことしか出来ないから」一般社会ですりつぶされ、そして「最低限のことが出来るから」支援も受けられず。
結局、どっちにも属することができないで、つぶれてしまって、なかなか大変でありました。

今は二次障害はすっかりよくなっているので、発達障害をいかに乗りこなすかだけ気にしてればよくなって、まあそれなりに楽しくやっておりますけど。

でも、思ったんですよね。
アール・ブリュットとか、アウトサイダー・アート、そういうものっていうのは、「健常者」「障害者」っていう枠組みすら、(極論ですけど)ないんですよね。

私があくまでも「私」であれば、それでよくて。
むしろ、いかに「私」を見つめて、突き詰めて、思い込みの自分に固執するわけでもなく誰かにあてがわれた型にはまるでもなく、ただただ本質的な「私」で在れるかどうか。
っていうのが、アール・ブリュットだと思ったんですよ。

誰だって、年取りゃ、なんらかの障害は出てくるわけで。足痛いとか、腰痛いとか、口回らんとか。
でも、この先にどんな変化が自分に起こっても、「私」を知っていれば、何かができなくなっても別の何かの手段で「私」を表現できる。
それは、死ぬまでは生きていられるということだと思います。

それは私のやっている「すごくないレコーズ&編集部」のコンセプトでもあるんだけれども。

都合よく解釈しすぎかしら。

でもさあ結局、そこですよねえ。
障害を感じていようがいまいが私は私であって、社会で生きていくために多少まわりに合わせることだって可能な限りするけれども、でもそれでも「私」は大切に持っておくこと。
人の都合にも、できる範囲の無理をして合わせるけれども、ちゃんと、まいにち「私」に戻ること。(それが私の場合、創作という手段で発露する。)

そうしないと壊れてしまうし、破綻してしまうし、びょうきになってしまう。

その二足のわらじが、今の、私の、「生の芸術」かなあ。

なんて思いつつ、あまり頭の中でこだわりすぎないで、やってゆきます。

イエーイ!