ノリで生きている話

私は、先々のことまでよく考えて行動することがあまり得意ではありません。
ほぼすべての事柄において、その場のノリで適当にやっています。

まわりの同年代と比べると、少々ちゃらんぽらんといいますか、根無し草のような生活ではあると思います。
ふだんの生活もそうですし、ものづくりに関してもそうです。
「社会人たるもの」あるいは「創作者たるもの」と一般的に言われるような事柄は、ひととおり、スルーしてしまっていますね。

ちゃんとするの、苦しいから、やめたんですよ。
ちゃんとすることで得られる事柄は、私のほしいものではなかった。

仮に、「できない」「わからない」「ちゃんとしていない」をほぼ完全に肯定し、それと同時に「知っててわざと奇をてらう(本来の感覚に反して)」を禁じ手とした時、何が起きるんだろうか。
というのは、私の興味を非常にそそる部分であります。

ほら、大量の顔写真を合成していって、どんどん平均化していったその顔が「美しい顔」である、みたいなのあるじゃないですか。
なんか、フランシスゴルトンって人が言ったって書いてありましたけど。

なんかそれって、ちょっと正直、うーんクソくらえだなーと、私は思うんですよ。

知識などの土台がちゃんとしていると、見ている側には安心感があるんじゃないかしらと私なんかは思うんですよね。
落ちてきてほしいところにスポッと落ちてきてくれる感覚、といいましょうか。

で、多くの人間はどこに落ちてきてほしいもんなのか、ここにこれを落とすというのがどういう意味にあたるのか、っていうのを学ぶのが、生活術、特にコミュニケーション術や、芸術関係(つくる方ね)の勉強なんじゃないかと思ったんです。

でも、多くの人がスポッと落ちてきてほしい部分って、知識として知ってしまうともう、知らなかった頃には戻れなくなっちゃうじゃないですか。
それでなんというか勘ぐってしまって、どうやったらいいか・自分が何をやりたかったのか、自分の中でのほんとうの第一印象はなんだったのか、よくわかんなくなっちゃう感が多少あるんですよね。

昔の西洋の絵も、暗黙の了解を求められるコミュニケーションも、読み解くときにいっぱい決まり事があって、まるで暗号書みたい。
わたしゃ、よう読みきらん。

でも、読みきらん・わからん、すなわち「知らん」というのを「いかん、知らなければ、わからなければ」と思わずにそのまま解き放った場合に、どうなるんじゃろ? 破綻するんじゃろか? それとも? という気持ちがあるんですよ。

「どこに落とすか」と考えるのではなくて、「結果としてここに落ちた」だけを追っかけていくスタイルで、どこまでもたせることができるだろうか? ということがらに強い興味があるんです。

ただ、これでちょっと恥ずかしいのは、たまにとてつもなくトンチンカンなこと言ったり、ものすごく当たり前のことを世紀の大発見みたいに言ってしまうときがあることですね、あれは、あとになって自分で気づいた時、けっこうはずかしい。

はずかしいけど、はずかしいのって実質で考えたらコスト0ですしね。

ここのところ、けっこう、恥をかけるガッツがついてきたと思っています。

今日も恥を晒しました。

明日も恥を晒します。

人生は、恥です。

うそです。