絶対的な価値についての話、あと本の話など

私は、考え事をするのがわりと好きです。
だいたい、どうでもいいことについて考えています。

たとえば、うちにはねこがダブルで住んでおりますが、ねこたちがいったい何を考えて日々を過ごしているのか、たいへん気になります。
また、彼女らとってはこの世界はどのように感じられ、私は何だと思われているのか、なども、考え出すとあれやこれやと仮説が思い浮かび、とどまることを知りません。

私にとっては、無為な考え事は粘土をこねて遊ぶのと似ています。
抜き型などを買ってきて使えば、こぎれいなものはできあがりますけれども、私はぶさいくでよいので自分のかたちを作りたいという思いがあり、意固地に自力でぶさいくな像をこねあげるのです。

とくに、絵を描いたり歌を歌ったりしていると、どうしても「ものの価値」というものについて考え事をする機会がたくさんあります。

私は現在のところ、価値というのは受け手側が個々に判断するものであって、絶対的基準はないのではないか、と考えています。
とりわけ創作物などに関しては、確実にそうであると確信めいた感覚すらあります。

ただし、特定の指標となる仮の定規(技術、知識量などなど)を明確に設けた場合には、それを基準として点数をつけることも、それらの総合点がより高いものを「価値が高い」と表現することも、可能ではあると思います。

ただ、やはり、それはあくまでも仮定の基準であって、絶対的なものではないと私は考えます。
絶対的なものさしは個々の中にだけ存在する、という考え方です。

私がそういった考えになるのは、自分の生きてきた経験からです。

「この世には絶対的な価値や正解が存在し、それにそぐわないものは間違いである」みたいな概念は、確かにこの世に雰囲気としてふわ〜っと存在している気はします。「人々が、便宜上、存在させてきた」という言い方もできると思います。

ただ、私はどう頑張ってもその概念の「正解側」に立つことができなかった人間です。
いつも不正解で、怒られてばかりだったので、自然と「この世はいったい何なんだ、正解って何なんだ、私って何なんだ」みたいなことを考えるようになっていきました。

社会の正解にそぐわない私には、「発達障害」というステッカーが貼ってあります。
私から見た場合には障害があるのは社会の方ですが、社会から見た場合には障害があるのは私のようです。

「この世には絶対的な価値や基準がある」と豪語する人たちの論は、そうした正解・不正解の価値の概念にそもそも参加できなかった私の目から見た場合に、いま悪名高い(ある意味では人気のある概念となった)「優生思想」に近いものとして、うつるのです。

もちろん、絶対的な価値の基準があるはずだと思う人たちだって、そんな極端なことを言いたいわけではないとは思います。
けれども、その絶対的な正しい基準とやらが実際にあるとなると、突き詰めていったときに私のような人間の存在意義は否定されてしまうことになります。正しくないし、正しさに迎合できないからです。
スペースの関係で、紆余曲折をかなり端折って結論を言わざるを得ないのですが、そんなこんなわけがあって私は「絶対的な価値は存在しない」という考えにならざるを得ないのです。
兎にも角にも、これは、自分とて社会の一員たるぞということを宣言するための持論なのです。

そこまでの苦労なく多勢でいられる人にとっては、世界に絶対的な価値や基準が存在するほうが何かと楽なんじゃないかと思うんですね。
判断を委ねることができる定規が万人共通で存在するのは、なんといっても便利です。それは、人々の共通言語になりえます。

また、私のような人間が「絶対的価値」の存在を否定することは、すなわち、間違った存在あるいは下位であるはずの人間から「あなただって正解ではないのだ」と言われている状態ですから、なんというか、屈辱感に似た感情があるだろうことも理解します。

でも、何も犯罪行為などの悪いことをしたわけでもなく、ただ自分の中の普通をやっただけでまるで罪人のように否定され続けてきた人間からすれば、「そんな暴力的な概念を、よくもまあ、さも真理であるかのように吹聴できるものだな」という考えにもなるのです。

絶対的な価値観が本当に最初から存在するなら、法律や、各種の目盛り、時間などの人工的な基準(というかルール?)をわざわざ制定する必要もなかったはずだと思います。
それらみんな、最初から自然にあったものではなく、人間が話し合いで作った「収拾つかなくなるんで、とりあえずみんなの意見を総合して、このぐらいの基準でしばらくいってみましょうかね」という仮置きみたいな目盛りでしかないではありませんか。
現象そのものは「ただ、在るだけ」であり、それを享受した人間側が勝手にいろいろ考えてるだけだということを忘れてしまうのは、いささか傲慢ではなかろうかと、そのように思うのです。

と、話が少々おおげさになりましたが、こういった考え事をするのが大好きなのです。

考え事をするのは好きなんですが、私は、お恥ずかしいのですが本をあまり読まないんです。これまでの生涯で読んだ冊数は、たぶん同年代の平均よりもだいぶ少ないと思います。

というのも、私は「自分で考えてから、そのさきを考える素材として本を読む」というスタンスをどうしてもとりたいんです。
とりたいというか、その順序でしか本を読めないんです。無理やり読んでも入ってこないんです。

たとえば「A」という事象について考えるとします。
そのとき、まず、袋小路に迷い込むまで自分だけで考えます。
自分の中の井戸が枯れるまで、スポンジをギッチギチにしぼりきって何も出なくなるまで、「事象A」をひもとく仮説をいっぱいいっぱい立てて、それらについて考えて考えて考え抜きます。

で、「だめだ、これ以上「事象A」について考えたければ、「知識B」を仕入れなければ先に進めない」と感じたとき、そこではじめて、「知識B」について詳しく書かれた本を読むのです。

私の場合、興味を持てないものはどれだけ勉強しようとしても吸収できないので、自分の意志で「これを知りたい!」という状態にならない限り、どれだけ本を読んでも無駄なんです。

本をあまり読まないというのは、少しバカにされる傾向がありますし、私自身、本は読まないよりは読んだほうが豊かであると理解しております。
ですが、私が本を読まない理由は端的に言うと「まだ自分で考えてる途中だから先生に横槍入れられたくないの! ネタバレしないで!」という状態なのです。もしくは単純に興味がないか。

本ねぇ、正直、何冊か読んでみたんですけど、驚きがあんまりないのね。調子に乗るようなのでもう言わないですけど。
もっと具体的な、たとえば絵の教本なんかは「おお!! なるほど!!! そんな技法があるのね!!!!!」と目からウロコが落ちたりもするんですよ、でも特に自己啓発とかそのへんのやつって、「誰でも考えりゃわかることじゃないか」とか「そんなもんなんとでも言えるがな」とか、そんなふうにしか感じないのよね。
選び方が悪いんかしら。

やっぱり、私がこの世で一番おもしろいと感じる本は、動植物や菌類の図鑑だな。

あと、家庭の医学。それと、辞書。

あれはおもしろいね。
サイコーですよ。

Kindleがはかどっていますよ。

あと、これ、きょう描いた絵です。
糸をはりつけています。

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ばいばーい。