ただ粛々と生命をうたえ

私は、大前提として、創作において「つくった人」と「その作品」をあんまり切り離せないタイプなんですね。
または、「そこが切り離されていない創作を好む」という言い方もできるかもしれません。

つくった人と作品が深くリンクしていない、クオリティを求める創作活動を、私は「制作」と呼んで区別しています。
「対・自分自身」というよりは「対・作品」。
あくまでも作品がシビアに研鑽されていくもので、目的としては「自己表現」よりも「よりよい作品を作り上げること」。
これを私個人は「制作」と定義しています。

この、私が「制作」と呼んでいるものについては、たしかに技術やクオリティをとことん追い求めるべきだし、「すばらしいもの」であるべきだし、作者と作品は区別した上で評価されるべきです。
そして、「制作」は、この世界に絶対に必要です。「絶対に」です。決して、なくなってはならないものです。

ただですね。
その意味での「制作」は、私はおこなっていません。目指していません。

「制作」の目線から私の作品を見れば、そのクオリティはそれはそれは低いことだと思います。
そりゃあ、低廉と言われてもしかたがありません。私は「制作」の土俵ではド素人も同然なのです。
そして、「制作」の土俵で勝っていこう、よりよくなろうという向上心も特に強くはありません。

しかしながら、それはあくまでも「制作」の土俵の中の話。
私は別の土俵で、向上心と強い信条を持って、日々に取り組んでいます。

自分の土俵の中の話でしかない事柄を全人類にあてはめて、「その土俵において低廉であり、その土俵の上で向上しようとしない者」のあり方を否定するやり方は、いささか傲慢なのではあるまいか。
ただしい土俵がそのひとつだけ、その土俵こそが唯一の正道であると思い込んでいると、「他者の否定」につながる。
「よその考え方も正解」と本当に心底思っていれば、自分の考えを提示するときに他者の否定は入らない。どんなに「※個人の感想です」的なクッション言葉でごまかそうとも、心底の思い上がりは、にじんでしまいます。やっぱり。
ということを、私は声を大にして言いたい。

ちょっと愚痴になっちゃいましたが、私の中の定義で「制作」は「あくまでも作品に対して真摯に対峙するさま」であり、私はそれを目指していない、とお伝えしました。

では私のやっていることが何かというと、ことばにすると非常に陳腐ですが「自己表現」ということになると思います。

私がメインに据えているのは「わたし自体が作品として成立すること」。
さらに、これが非常に重要な命題です、「いつか腕がちぎれても目玉が落ちても声がつぶれても、別のかたちで自己表現ができる自分を練り上げる」ということを、とても強く意識しています。

といっても、自分のすがたを作品にするわけではありませんよ。
私は見栄えが悪いですからね。モデルになろうってんじゃありません。

そうじゃなく、私が死んだ時に「あの人の人生は、それ自体が作品だったね」と言われたら、私の人生は成功なんです。

それをまっとうするのが私のライフワークだな、と思ったので、たぶんこのさき何が起きたとしても、それが死ぬほどくるしくて辛くて絶望するようなことだったとしても、「私という人間の大切なオプション」として、尊重していけると思います。
それに、もしまたうつが再発しても、もう大丈夫だと思います。
もともとネガティブな人間なので「もう再発しないと思う」とはとても言えませんが、「再発しても大丈夫だと思う」という感覚はあります。

ものごとは、ただ発生するだけです。
私は、そうしたものごとを、いいことも悪いこともなるべく見逃さないで、たくさんつかんで私のそばにおいて、たいせつにしようと思います。

それが私の創作活動です。

いじょ。