私は、自分の下の名前があんまり好きではなかったのです。
好きじゃないというか、フィットしないというか。
特商法とかの関係で最近あんまり隠してないので、もういいんですけど、「温子」というんですね。
「なーにが『温子』じゃい、こんな冷たい人間もそうそうおらんわ」とずっと思っていたんです。
だからなんかこう、名前負けというか、自分には背負えない名前という感覚だったんですよね。
いまでも、そこはあんまり変わっていないんですけれど。
でも、ちょっとだけ考え方が変わってきたかな、と思うのは、「自分自身が温かい人間である、だけがすべてではないか」というところです。
私そのものは、なんというかアカンタレで、ダメ人間で、ほっとくとろくなことをしないし、普段は猫かぶってても精神的に追い詰められるとアッサリ嫌なヤツになるし、向こう見ずで独りよがりであんまりいいとこないんですけど、唯一の長所として、「自身はおいといて、まわりにいるひとたちがとてもあたたかい」っていうのがあるんですよ。
もし、「本人の人柄で周りの人間様相が決まる」ということがあるのだとしたら、それはもう私が本来持っている格を大きく、圧倒的に超えたレベルで、まわりの人たちがやさしくて品があり、時に正しくおこり、あたたかい。
私、こんなに周りの人に恵まれるような徳の高い人生送ってきてないのに。めちゃくちゃで、迷惑ばっかりかけて、嫌な思いばっかりさせて、ダメ人間なのに。
その説が本当にあるんだとしたら、恵まれるべきは絶対に私ではないはずなんですよ。私は謙遜抜きで、そんな素晴らしい人間じゃないから。恥ずかしいことばっかりだから。
だからこの「周りの人の様相は自分自身の行いで決まる」は私は嘘だと思う。
ではなぜ私がこうも恵まれるのか、と、ぐるぐる考えた結果、「私の名前が温子だからか」というトンデモ理論に着地したんです。
我ながら、いっさい何の筋も通っていないエクストリーム着地だと思うんですけど。
まあそれはこじつけなんですけど、「自分は冷たいけど、なぜか周りの人々があたたかいな」と思った時に、「温子でいいか」と思えたというのはあるんですよね。
「すきまのひとびと」公開から一夜明けて、そんなことを思いましたよ。
ええ。
すきまのひとびと、よろしくどうぞね。
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