「センスがいい」とは、「そうこなくっちゃ」なのか「その発想はなかった」なのか、はたまた

「センスがいい」という言葉を、「そうこなくっちゃ」の意味で使う人と、「その発想はなかった」の意味で使う人が、いるじゃないですか。

あれはどっちが正解なんでしょうね。

私の勝手なイメージだと、「芸術」のなかでもある種の学問としての表現、これに際して使われる「センスがいい」は、前者の「そうこなくっちゃ」に近いですよね。知識、技術、とも言いかえられるような。

一方、より大衆的な、ポップカルチャーっていうんですかね、そういうのでは「その発想はなかった」という意味でよく使われるのかなあ、と感じます。

私ね、これについて、個人的に推したい説があるんですよ。

センスとは、「いかに自分自身を的確に理解しているか」ではないか。
という説なんですけど。

ただこれ、自分が発信側であることが前提の説ですよね。

あのね、「自分にはセンスが無いから」とか言って、自信ないから勉強ばっかりして、知識ばっかり積み上げて、ガチゴチになっちゃってる人っているじゃないですか。
こんなにがんばってるのに、こんなに正しいはずなのに誰もわかってくれない! とか言ってスネちゃったり。

でもね、なんかこう、思う時があるんですよ。
「がんばったんやろなあというのも、賢いんやろうなあ、器用なんやろうなあいうのもわかったけれども、なーんかなあ、なんやろうなあ、いまいち、センスが感じられへんねんよなあ」って。

そんな感じのひと、ちょいちょい見るんですよ。

私はね、セオリーは知らないんですよね。「アカデミックな部分」っていうんですか。
そういうのは、わからないのです。何しろ、座学だいっ嫌いですから。

決して無学を称賛するわけではなくてですね、私に関しては「おまえはもうちょっと勉強せえ」っていうたいへんシンプルな話なんですけど、でもね、逆側の極端さんの話すると、「自分にはセンスがない」って決めつけてしまってお勉強に頼りすぎて、自分自身が行方不明になっちゃってる人って、いるじゃないですか。
そういう人ってやっぱり、「なんやろうなあ、ちゃんとしてはいるんやけど……」って感じてしまうんですよ。
この時代、それはもうAIでいいっていう話になってしまう。

でね、じゃあどないすんねんってなった場合に、「私」という人間の特性を最大限に発揮する必要があるわけですよ。
AIとは一味ちゃうぞ、っていう部分を見せつけてやらないといけないじゃないですか。

そうなったら、「私」を知り尽くして、かつ刻々と変化していく「私」にも柔軟についていって、「私」というものを最大限に使いこなせる、そのために何のスキルを習得すべきなのかものすごくちゃんと取捨選択できるというのが「センス」になってきません?
っていう説なんですよね。

だからね、私ね、「音楽好きならあれ聴くべきこれ聴くべき」とかいうのめっちゃ嫌いなんですよね。
えらい楽ちんでインスタントなセンス習得術でんなあ、と思う。

読んだ本の文章ただそのまま発信して吸収したつもりになってる人とか、聴いた音楽の種類や数を自分にハクつけるためのバッヂ代わりにしてる人とか、せっかくそんなようけようけ本とかCDとか買うお金持ってはるのに、なんのために読んでる・聴いてるねんもったいない、って思うよ。

「自分」の探求と構築は、奥が深いですよ〜〜〜〜〜。
なんぼでも嘘がつけるぶん、いっさいの嘘がゆるされない。

でも、タダで出来ます。

「自分にはセンスがない」って思う人って、本とか読んだり勉強とかするより、まず「晴れた日に、手ぶらで、ひたすら空を5時間ぐらい眺める」みたいなことをしたらいいんじゃないだろうか。
空じゃなくて木とかでもいいんですけど。

工場地帯とかはね、時々おもしろみが降ってくるから、あれは娯楽です。
そうじゃなくて、何も起きないようなやつを、ずっと見るの。

1〜2時間ぐらいした頃から、正直だんだん飽きて帰りたくなってくるんですけど、そこからまだ数時間粘るんですよ。
そうしてる中で、もう何の発想も出なくなって面白みも見いだせなくなってきた頃に出てきた考えとか感覚とかが「自分のセンス」なんちゃうかなーって個人的には思う。

私はねえ、座学ってとてもインスタントな方法だと思ってるんですよね、もちろん必要だとは思いますよ! 思いますけれどもね、けっして無碍にするつもりはなくて、でも、インスタントだと思う。

自分のセンスを見出すには、自分と向き合うしか無いですよ、やっぱり。

死ぬまでね。

自分って変わっていくから、いつまでも昔の自分に固執してないで雲みたいにふらふら変わっていくことも必要。

っていう説なんですけど。

どうですかね。

アホ感出てます?

アホですから。なにしろ。

ね。

ばいばーい。