私は、だいふくではないだろうか -ADHDとASD-

この珍妙なタイトルについて、私は当然、説明する必要があるだろう。

私が本気で自分を大福だと思いはじめたわけではなく、あくまでもものの喩えであることを、ぜひとも強調しておかなくてはならない。

私はADHDと診断されている。
我ながら、たいへんADHDらしさのあるADHDだと自負している。

一方で、たとえば聴覚がやや過敏ぎみであったり、こどものころ図書室で「4」のナンバーがついた本だけを借りていたり、一人遊びを好んだり、独自解釈が激しいところがあったり、予定変更を嫌ったり、「どうなるかわからない」を大変おそれたり、知らない場所に行きたがらなかったりなど、ASDを彷彿とさせる性格を有しているのも事実である。

しかしながら、おそらく、もしも私が「私はASDではないでしょうか?」と10軒の病院を訪ねたら、10軒とも「いや、ASDだとは思いません」と言うだろうことは容易に想像できる。

それは、私のコミュニケーション様式が、わりあいに定型発達者やADHD者寄りのものであるからではないだろうか。
表情やジェスチャーはわりと豊かであると思うし、なんと言おうか、一言で表現するならば「cheerful」なタイプだと思う。
相手の言外の意図も、表情などからある程度は認識することが出来ていると思う(多少にぶいところはあるかもしれない)。
空気を読めないどころか、逆に空気に気圧されて萎縮してしまうことのほうが多い。

よく知っているわけではないが、ADHDを持つ人々が有しているちょっとASDチックな性質については、「ASDに顕著だけれども、ADHDでもわりとよく見られる」というふうな解釈がされてきたのではないだろうか。

けれども、私の中のさまざまの特性を解釈する時、すべての不具合をADHD(あるいは生育の中で生じた後天的な性質)由来のものとして説明することも出来ると言えば出来るのだが、そうではなく「根底にあるASD気質からくるもの」と説明してしまったほうが、自分の感覚ではよりストンと腑に落ちるのである。

だからといって、「ASDが併存している」というのも、いまいちピンとこない。
たぶん、私というキャラクターに、ASD感はあまりない、と、思う。自分では。

ただ、「内包」という表現であれば、非常にしっくりくる。

造語になるが、いわば「ASD内包型ADHD」。
これがタイトルの「だいふく」である。

もちろん、ASDをあんこ、ADHDをおもちに見立てて話をしている。

外からはADHDにしか見えないが、かじると、中にASDが隠れているのである。

夫などは、逆に「ADHD内包型ASD」に私には見える。
表面的にはASDが問題を引き起こしているが、内面にADHDの要素を持っているように感じる。
これは、そう、おはぎである。

両方の性質が完全にまざりあい、両方の性質が外から丸見えのパターンもあるだろう。
「白玉ぜんざい」あるいは「お赤飯」になるだろうか。

私は多くの臨床例をまったく知らないから、自分自身を例として出すしかないのだけれども、たとえば私の場合には、お互いの性質が相殺しあっていると言うよりは、


「ASD気質をADHD気質がカバーしている(コミュニケーション面)」
「ADHD気質とASD気質が相互に後押ししあっている(衝動性の中にこだわりがある、ルーチンの中で細かい変化を楽しむ、など)」

といった感覚がある。

悪いものだという印象はあまりない。

私は、自閉スペクトラムと注意欠陥多動性が「だいふく」状になっているように思ったけれども、ほかのひとはどうなのだろうか。
ほかのひとびとの胸には、どんなおやつが眠っているのだろう。
はらぺこのわたしは、ぜひ、知りたい。

おなかがすきました。