理想と現実(Sparking)

私は、わりと気の多い人間です。
あれをしてみたい、これをしてみたいと、よく言っております。

でも、矛盾するようなのですが、同時に堅実・現実的なタイプでもあります。
特に金銭面。5桁台の大金はたくときは、少なくとも半年は悩みますし、もちろん家族にも伺いをたてて許可を取ります。
もしくはそれを買わないで済ませられる方法はないか、自分で作れないか、と考えます。

自分ではそう思っているんですが、私が思い描く理想は、よく「現実的ではない」と言われます。

ですけれどもね、順序の問題なんです。
私は、下記のような順序でものごとを考えています。

1,実現可能性を度外視した理想をたくさん描く

2,それら理想を、今現在において現実的なものと非現実的なものに分ける

3,非現実的なものについて、具体的にどういった点が非現実的なのか考える

4,3であぶり出された「非現実的な点」について、実現可能となる策を考案・検討し、実現につなげる

だいたいいつも、こういった順序でものを考えているような気がします。
「こうだったらいいな」を考えるときに、可能とか不可能とかは考えません。

個人的に、「理想を描く」の時点では、実現可能性の考慮は不要と考えます。

実現可能性を前提として理想を描いてしまうと、発想が狭まってしまいますし、何よりも「熱」という、私が動くにあたりもっとも必要なものが薄れてしまいます。

たいして熱意もない事柄が相手だと、「お金がない」とか「時間がない」で話終わっちゃうじゃないですか。
そういうことを思うときって、時間やお金が本当にまったく無いんじゃなくて、「そんなことに割くほどの」っていう前置きが隠れてるでしょう。

でも、理想が先にあって、それをなんとしてでも実現したいという熱量があったら、「できない」では終われませんもん。「じゃあどうやったらできるか」って、考えるでしょ。
無いものは無いとして、じゃあ代わりにどうする!? って、色々と試しますよね。

この流れだと、どれが手段でどれが目的なのかがはっきりしますから、「これがダメならこれだ」にしていい部分はどれか、そして揺らいじゃいけない芯はどこか、見当がつくというものです。

そこまでグルグル考えるほどに強く「なんとかして実現したい」と思うには、やはり「理想→実現性」の順番で考えて、あとでがっかりするのを恐れずに熱をグイグイ上げていくことは、一つの方法として有効だと思うんです。

でも、たぶんこのやり方、「私があほちんなダメ人間だからできる」みたいなところ、あるんですよね。

謙遜とか自虐とかではなくて、むしろ恵まれていることだと思うんですけど、自分で思う自分の像が「悪くないんだけど、イマイチな子」なんですよ。
それをコンプレックスに思っていなくて、「できないもんはできない」という事実として、卑屈ではない形でそのまま飲み込めているというのが大前提としてあるので、やってみてうまく出来なくても自画像が歪まないというか、あんまりへこまないんです。
だから、どんどんやってどんどん失敗できるし、できないことがあるならできることでカバーする という考え方が、わりとできやすい。

ところがですよ、たとえば小さい頃から失敗を責められてばかりいて、成長後もリカバリできるタイミングがまだ来てない人とかですと、失敗に向かう可能性がある事柄に取り組むことには、かなりの恐怖がともなうと思うんですよ。
おまけに実際に失敗する可能性も結構高いわけですからね、そもそもからして自分で感じる自分の価値が低い状態で失敗なんかしたら、自分自身の否定というところにつながってしまう恐れがある気がします。

例えが適切かわかりませんが、高所恐怖症の人に「いいから高いとこに行け、行けばわかる」っていうのは、私は好かんのです。

そういった方は、石橋を叩いて渡るスタイルをとりながら、小さい小さい成功体験をちょっとずつちょっとずつちょっとずつ積み上げていきながら、ゆっくり、ふわっと、やっていかれたほうがよい気がする。
すっかりげんきになって、少々のことでは凹んでももとに戻るようになったあとでなら、このやり方も試してみたらいいんじゃないかなとは思いますけど。

これは「当たって砕けて再起しろ」という、サイヤ人が強くなる時のやり方なのでですね、基本的にはですね、「我こそはカカロットと張れるレベルのアホだ」と自負されているタイプのかただけ、参考にしていただけたら良いかなって思います。

超の悟空はちょっとアホとして描かれすぎてて、違うんですよね。
なんかわりとクレバーなところもあったりしたんですけどね。
ピッコロさんは口笛がにがてなんだよ。

ばいぶー。