やりたいこと、やるべきこと

前から言っている、「みんなが集まれるアトリエ」の件。

地味に進めていて、いまは物件の目処が立っており、公庫からの融資が通り次第、始められるというところまできました。
ただ、まだ物件を契約したわけではなくて、契約できるだけの初期費用を集めるのにあっちこっち駆け回っている次第です。
その間に別の方に物件をおさえられたら、また物件探しの旅です。

見させていただいた物件、すごくよくて。
天井に、扇風機ついてんの。
おしゃれな洋風のファンじゃないですよ。扇風機です。扇風機。昭和の電車みたいなの。すっごくいいでしょ。
あそこがいいなあ。
はやくおかね工面しなくちゃ、誰かに持っていかれちゃいそうで、なんだかちょっと焦っちゃっています。あせりは禁物、どーどーどー。

正直、私一人のアトリエだったら、自宅の一部屋でいいんですよ。一人なら、それで十分なんです。
そもそも、私、個人的には誰もいない場所で一人で作業したいタイプですし。

けれどもね、私はですよ、思うことがあるんですね。
なんかいつも同じこと言ってるような気がするんですけど。

「福祉」ってね、絶対に基準を設けないといけないですから、その福祉がどんなにすてきな内容であっても、かならず「ギリギリ受けられない人」が出てきてしまうじゃないですか。

その「ギリギリ福祉を受けられない人」って、どうやって生きてるかと言うと、死にそうになりながら「普通」に食らいついて生きてんですよね。全員じゃないですけど、私や私の周りの人でいうと。
で、いよいよ死ぬって段階でようやく福祉が受けられる、ならまだ運がよくて、もうその頃には福祉を受けようという体力も気力も、あるいは「自分もそれを受けられる」という発想そのものも失せて、何ていうんでしょう、「死んでないけど、ただ死んでないだけであって、実質生きてもいない」という状態になっちゃってる人が大勢いるんですよ。

そういう人のですね、ひとつ、こう、ちょっと大げさにはなりますけれども「生き方のモデルケース」になりたいっていうのが、まず一点ございますね。

なんか「受け皿になりたい」っていうのは違うんですよ。
私は、救い主ではないです。そこまでの責任は持てない。
「助ける・救う」「教える」、などの一段上に立つ事柄は、無学な私にはできない。性格的にも向いてない。

で、なおかつ私には、「絵になる不器用さ」っていうのも、ないんですよ。
たとえばこう、「私には絵(あるいは歌)しかない」とか、その他の生活がまったくできないとか、そういうのはないんですね。
がんばれば出来るんですよ。
人よりがんばらなきゃできないんで、なかなか続かないっていうだけで。

これを私は長らく「普通の生活を送るにはおかしすぎる、アーティストをやるには普通すぎる、何にもできないただの人」と自虐していたんですけども、最近ね、思うんですよ。

「私はこういう中途半端な人間だけれども、『中途半端な人間』の当事者だからこそ、焦点をあてなきゃいけない人々や事柄が、あるんじゃーないのかえ」ってねえ、なんかねえ、すごく思うんですねえ。

みんな本当に、すごく無理していると思う。ギリギリがんばれるからって、がんばりすぎなんですよ。
でもがんばらないと生活できないですし。自分から「しんどーい!!!!!」ってアグレッシブに助かりにいかないと、誰も助けてくれないんですもん。
でも自分から助かりに行くのって、なんかラクしてるみたいでひとさまに悪いような気がするし、なにかに怒られそうで、結局自力でやるほうがまだ気楽だと思って、ギリギリを超えるまで自力でやっちゃうじゃないですか。

それで、みんな他人のことがやたらと楽しそうに見えて、自分よりがんばってないように見えて「ずるい」とか思って、嫌いになったり寂しくなったりして。
私は本当に本当に「みんな疲れてるなあ、そら疲れるわ、八つ当たりの矛先が自分に向いた場合にはさすがに腹たってまうけど、でもそうなるのもしゃーないわ、こればっかりはその人だけのせいとちゃうわ、但し言っとくぞ腹は立つしかもかなり強めに立つ、けども、どうにもキミだけのせいやとは思えんわ」って感じる。
本当はもっと、なんかこう、芯のところでみんな「やさしくていい人」なんだと思う。わりと多くの人が。

そういう「やさしくていい人でいられたはずの人」が、やさしくていい人のまんまでいられるために、何が必要なのか。って考えるんですよ。

私だったら、「何も疑わなくて済む場所」がほしい。

ガチのクズはね、いますよ。
どうしようもなく、います。
私は、そういう人を助けたくないし、助けられないし、関わりたくない。

だったら、こういうことには手出ししないほうがいい?

でもね、私は思うんです。
「責任を持てないなら、何もするな」「そうやって偽善を振りかざすな」の結果が、今の「隣人への、殺人的な無関心」みたいな風潮を生んだんじゃないかと。

いや、私自身、まわりの方にはある程度私に無関心でいてもらったほうがラクなんですよ。
でもそれって、「従来の型に当てはめて色々指図される恐れがあり、それがめんどくさいから」「あとでお礼をしたりなど気を遣うのがめんどくさいから」みたいなところであって、本当の意味で世界からの無関心を求めているかというと、微妙に違うんですよね。

私はねえ、世界の全員、平等に愛せるわけじゃない。
愛したくない人はいますし、愛したくても手の届かない人もいる。
でも、愛せる相手に対してだけでも、キャパの限り真摯でありたい。

これまでは、「愛せる人」を愛した結果「愛されなかった人」が生まれてしまうのを恐れて、だったら平等に誰も愛さないべきだと思って何もしなかった。
でも、「それってちょっと、ちゃうんちゃうかな」って最近思い始めたんですよね。

人のやさしさを疑って、黒い真意を探してしまうのって、大体の場合は周りにさんざん傷つけられてきたからじゃないですか。
騙されてるんじゃないかって怖いのは、騙されてきたからじゃないですか。

なんか、「せめてこの場所だけでは、そういうの、もう全部やめよう。いい人のままでいられる場所、『信じる』を前提としても誰も傷つかない場所、それでいて同時に『現実的に、生活を回していく』を両立させよう」っていう場所をね、つくりたかったんですよね。

正直、無謀だとは思いますね。
私は算数にがてですからね、損得勘定がバグってるんですよ。

なけなしのプライドを捨てたら、カンパを募るかも。
いまはねえ、まだなけなしのプライドが残ってるんですよ。
でもねえ、なんかねえ、それすらも捨てそう。

良心で成り立つ、昔ばなしみたいな場所。

にしたい。

など。

思っております。

がんばりまーす(・3・)