基礎練習が苦手という話からなんか大きい話になってしまった話

私は、気の向くまま、やりたいようにやることが好きです。

幸いなことに、そういうふうにしてもそこまで人の道を外れない、たとえば法を犯してまで何かをしたいとかそういう考えは浮かばないタイプみたいで、私の場合はその生き方がある程度成立しています。

「やりたいこと」の前に「あんまりやりたくないけど、やらなきゃいけないこと」という壁が高くそびえ立っている場合は、できるだけ回避できる方法を考えて、無理なら仕方ないので嫌々やります。

嫌々やってみると、意外とちょっとがんばればすぐ終わったりして、「なぁんだ」と思うこともあります。
ただ、先にある「やりたいこと」がものすごく強いものでないと、そうはいきません。私にとって「食指が動かない」というのは、ガチで心が全く動いていないのです。

私は、これまでに世間で「基礎」と呼ばれ重宝されてきた色々な事柄について、少々、いやかなりスッカスカなところがあります。

たとえば、学校ではきちんと座って授業を受けて、テストでいい点数を取り、ちゃんとした学校に進学する。
たとえば、積極的に読書をする。
たとえば、デッサンをひたすら練習する。
たとえば、ギターの運指運動や発声練習を毎日行う。

こうした事柄は、すごく大切です。
本当に大切です。
しておいて、損は一切ないと思います。可能なのであればやっておけば、人間社会では必ず有利にはたらくと思います。

でも、私はそれらがあまり得意ではありません。
そうした、「今、この瞬間にどうしてもやりたいわけではないこと」に立ち向かうことが、どうにもこうにも苦手です。

そしてこの苦手は、私をいつも気後れさせます。コンプレックスというやつです。

そうした基礎の部分がやれないと、どんなに他の得意をがんばって成果を出しても、まるで「無」と同等であるかのように言われることがあります。
私は、「それはきっと違う」と言い続けたいと思います。
自分の「地道な努力が苦手」というコンプレックスを完全に払拭できるまでの、対症療法的な塗り薬として。

ただ、基礎練習などを一生懸命に重宝し、他にまで強要し、基礎なき他者を「無」と扱う方も、これはこれでコンプレックスに薬を塗っている状態であるようにも思われます。
「基礎」という、すでにあるものをたどる努力をすることによって、「自分はちゃんとしている」と懸命に確かめている部分があるのではないか。と想像します。

今、書きながら同時に反省をしたんですけれど、こうやってコンプレックスとコンプレックスでぶつかり稽古をすると、よい方向には向かわないですね。
上記一連の流れ、書いている間はなるべく嫌味っぽくならないように言葉を選びながら書いたつもりだったのですが、私自身もそうであるように、人のコンプレックスに言及しようとしている以上、どんなに言葉を尽くしても攻撃と変わらないと思いました。

本質の部分は、「基礎鍛錬をすべき」とか「いやいらない」とか、そういう問題ではないんですよね。
それはあくまでも、表面に出てきたアクの部分なんですよ、きっと。

結局のところ、とにかく「自分という個人には今何が必要なのか、自分の頭で考えて、自分で責任を持つ」しかない気がしています。

「みんなが『これが大事』と言っているから、やる」だとあまり意味がないと思っています。
社会一般で「よい」とされている事柄に、自分の頭で考えてきちんとした因果関係を見出し実行する、これが大事ではないでしょうか。

また、私にはものすごく嫌いな人たちがいるんです。知り合いじゃなくて、TwitterのRTでよく流れてきていてブロックした知らない人なんですけどね。
その人達は50歳ぐらいの、経験値だけはある人たちで、自分たちを一段上に置きたいがために知識や経験を使って他者をこき下ろすので私は本当に心底嫌いなんですね。

「自分はちゃんとしていると確かめるために『よい』とされていることをなぞり、そうでないものを謗って勝ち誇る」
このやり口が一番、無意味かつ害悪であると私は思います。

「必要は人それぞれ」としか、言いよう、無いと思いますよ。
人それぞれって言葉がやたらと嫌いな人、そういうツイートたまに見ますけど、古い社会に迎合し過ぎかも。もっと自分の頭で考えて、何よりももっと自分を信じたほうがいいかもしれない。って思います。
特に、今からの時代生きていく若い人はですね。

人それぞれ、だと思いますよ。私は。
もちろん、これまでのやり方もとても大事で、みんながみんなフラフラし始めちゃったら社会回らなくなりますし。
「全員がこうじゃないといけない」がダメなんですよ。
だから、「人それぞれ」。

そんなかんじです。

ばいばーい。