「すごくない」というスタンス

私、たまにまぐれが起きるときはあるんですけれども、基本的にあんまりすごくないんですね。

私がやっていることって原則誰でも出来る・誰でも思いつくことであって、けれどもそれに対する報酬(お金という意味に限らず)がかかる労力に釣り合わないことが予測され、そのため他の人があんまり手を出さないことを、「なんか楽しそうだから」という理由で何も考えずにやってしまっているだけです。

といっても完全に向こう見ずなわけでもなく。
私という人間は、ものすごく高いリスクのあることに手を出せるほどの社会的地位やお金を持ってないので、そもそも私ごときが挑戦できるレベルの事柄って、失敗しても失うものの量が知れてるんですよね。
トチったら人生終わるぞっていうほどのリスクを背負えるだけの色々な元手が、まずないんですよ。

だから、すごいことって出来ないんです。
でも、私はそれをものすごく、こう、自分の持っているメリットだと思っているフシがある。

ときに私は、「従来の在り方でいたほうがよい」という向きの人には、あんまり受け入れられないんです。私そんなに先進的じゃないんですけどねえ。まあいいや。
ここでいう「従来の在り方」というのは、「平均に寄せる」「全員がひとつの正解に向かう」スタンスですね。(よく知らないんですけど、話聞いてるとどうも戦後日本の感覚なのかな。)

なんかですね、社会に強いられたそのスタンスが、いろいろなモンスターを生んだような気がしないでもないんですよね。

昭和から平成にかけて、「今置かれている場に対して従順になれる人(自我を寝かしつけられる人)」が社会的な意味で勝つ世界だったと思うんです。実際には全然勝ちではないんですけど、勝ちと表現しますね。
極端な表現をすると、「本来の自分を殺せることが正義」だったわけじゃないですか。少なくとも私の目にはそう映ってるんですね。

で、今になってもなお、「上手くやれる人」が「上手くやる方法」を指南するようなコンテンツでは、「人前では自分を殺せるタイプであるようなふりをしとけ」といった内容のことを言うんですね。
それって対症療法、とりあえず今現在を切り抜ける苦肉の策であって、根本的に何の解決にもなってないんですよ。

ひとつの正解が存在して、それに向かうことが正義なのであれば、もう人間はAIに全部任せてこの世からいなくなっていいと思うんですよね。
「人それぞれ」がそんなに嫌なら、サイボーグとかマシーン的なものになればいいんじゃないかしら。

だって、実際に「人それぞれ」なんですもん。
あなたが「人」であるなら、ですが。

と、話が大きくズレたんですが、「すごくない」の話に戻ります。
すごくないというのを、私はメリットだと思っています。なぜかというと、第一には「楽だから」そしてもう一つには「平気な顔してすごくないままでやれる人っていうのは、まだ絶対数が少なくてなにかと有利だから」です。

だってアトリエのヌシがお客さんにいろいろ教わってるんですよ。
ふつう逆でしょう。

っていう変な力関係が、ある種のなにかこう、ブランドになるわけじゃないですか。

そこがわからずに、たとえば「主婦とはこうだ」とか、「絵かきとはこうだ」とか、「アトリエ主とはこうだ」とか、自分を殺してそういう「正解」に沿ってやってたら、なーーーーーーーーーーーんにも、商売にならないですよね。だって、別におもしろくないんだもん。私がやる必要もないし。

私がやるという意味のあることしか、しないよ。

あとねえ、この「すごくない」を恥じないスタンスだと、身の丈以上にがんばらないで済むので、周りを見たときに嫉妬の感情などがぜんぜん湧かないんですよね。
私よりうまく行ってる人を見てイラッとしたりは、まったくないですね。むしろ、お相手さまが嫌がらないのであれば教えを請いたい。私も画材の協賛ほしい。(笑)

なんだこのブログ?

まあ、ひまつぶし。

いま、ねじろ、予約制にしてるから。

まったね〜。