表現活動およびその共有って一部の人間にとって「衣食住」に準ずる気がしてる(表現活動は不要不急のものではないと言い切る根拠を探してみた)

新型コロナウィルスが流行してから、「表現し、それを共有する」みたいなことって、「不要不急」の代名詞みたいになっちゃったフシあるじゃないですか。

私自身、やっぱり「それ一本で食ってるわけじゃない」っていう、何というか緊急性のなさがあったので、当事者意識に欠けるというか「まあ……そりゃ不要不急と言われるのもわかるけどでもでもでも、いや、……それは、まあ……でもさあ……あっ……うぅ……」みたいな煮え切らない感じだったんですけど。

「でもさぁ……」のあとを、うまく紡げなかったんですよね。
不満はあるけどロジカルに説明ができないみたいな。

ウェブ上でいいじゃんと言われれば確かにそう。
確かに対症療法としてのウェブ上活動っていうのはすごく有効だし、私自身「それぞれの家から弾き語りの対バンライブを」みたいなの言いまくったし。
でもね、それって長くは続かないんですよね。対症療法だから。
ここまで長期化しちゃうと、対症療法でお茶濁してる間に根本原因はじわじわ悪化してる、みたいな状態になっちゃってる気がする。

で、そもそも、「表現活動およびその共有」っていうのがね、人間って、衣食住と同じく、必要なんじゃないかと。
特に必要ない人間も結構いらっしゃると思います。でも、生命維持という大きな水準で語ったとしてもそれを必要としてる人間ってやっぱり、そう少なくない人数で、いる気がしてきた。

これをちゃんと立証できれば、大手を振って「表現活動は不要不急のものではないです!!!」って言えるんだけどなあ。

この世には、私みたいに思ったこと何でもかんでもとりあえず言っちゃうバカもいて、わしらみたいなのはほっといても勝手に何かそれぞれ楽しそうにやるんで放置でいいんだけれども。
でも、「自分で自分の思いを表現することは、さまざまな理由で出来ない」っていう繊細でひかえめな人もたくさんいると思うのですよ。

そうした人が、例えば音楽であったり、展示であったり、そういった自分に合った生の表現に触れた時、まるで自分の中でこじれたさまざまな感情を代弁してもらえたような、そして、まるで自分が自分の考えを適切に述べて共感を得たときのような、そういう高揚感と言うか安心感? が生まれると思うんですね。

表現する側の方にしても、「この状況で『私の絵を見て!』なんて言えないよ……」っていうすごく思慮深い方もたくさんいらっしゃる。
頭の中がどれだけ表現したいものであふれても誰にも伝わらない、そういう孤独感の中であえいでる人もいる。

だから、そういうひとびとのために、今の御時世であっても様々な対策をした上であえて人前に出る・その場を提供するっていう選択をするアーティストさんやハコ(ライブハウスやギャラリー等)って結構いらっしゃると思うんですね。
お金が云々じゃなくて、そういう代弁者や居場所、自己表現の場を必要とする人たちが「死ぬ」という選択肢をとらないように(ここでの死ぬというのは、生命を絶つと言う意味もあるし、『自我を殺して生きる』と言う意味もある)っていう。

それって、本当に、甘えや傲慢かなあ?

私は、シェアアトリエ一応開店してる状態にしてるんですけど、もしなんかあったら全責任自分が負う覚悟でやってますよ、やっぱり。
それ以上に、今、場の共有が必要なひとびとってやっぱりいるんですよ。
お金になんかならない。大赤字ですよ。でも、そこじゃなくてね、だって私ら、人間ですから。精神的な充足感っていうのは、やっぱり衣食住に準ずると考えたほうがよいんじゃないかなって思う。

もちろん、何でもかんでも許しゃいいってことは絶対なくて、締めるとこは締めないと感染拡大キリがない、これは理解する。
ただ、やっぱり、やっぱりね。
「コロナかかんなくても精神的に死ぬならそれは同じくらいよくないよ」っていうところよね。

がまんするところはするよ。それぞれにがまんできるところはするべきだとも思う。
でも、「今日あのライブに行けなかったらもう死のう」とか「今日この人に会えなかったらもう終わろう」は、そこまでレアケースではない割合で、あり得ると思うのです。

っていうのを理論的に証明する学が、私に、あればいいのに。

こういう時だけは「勉強しときゃよかったな」と思うね。

ぷう……

また。