これはどっちがいい悪いの話ではないんですけど、「作品側が何かを語る絵」と、「作品は何も言わず、見る人がそれぞれに語る絵」がありますよね。
私の場合、「絵を媒介にして自分が何かを叫んでいる」という状態だった時期がわりと長いことあって、そのころに描いたものはなんかの紙の裏だったりノートの切れ端だったりしますから、それらを自分では「作品」と呼んでいないんだけれども、「とっとけばよかったな」はちょっとあったりします。
当時は、描いてそれをネットに上げることで「誰でもいいから、自分の寂しさやつらさに気づいてほしい」という感情があったように思います。
第二言語としての絵であり、己の内心の吐露であるという感覚でした。だから、オフラインの知り合いとかには見せられなかったです。傷を見せるようなものですから。
そういう、「何かしらがこもっている絵」をそこらへんの紙じゅう描き散らかしていたのですが、いちおう「作品」と呼ぶようなものを描くようになってから、「こっちばっかり喋ってるんじゃ、だめだよなあ」なんて思うようになりましてね。
絵のほうが主体的に語る絵と、何も言わないで見る人がしゃべるのを待つ絵、エンターテインメントとしての絵と、これらを分けて考える必要性を感じるようになってきました。
たとえば、これはわりとおしゃべりな絵。言いたい放題な感じ。
で、こちらは、自分からは何も言わない絵。
で、こういうのはもうシンプルなエンターテインメント。
「強い思いや意図を込めない絵」というと、ひっくるめてライトなエンターテインメントとして語られがちですが、窓辺に腰かけてムーン・リヴァーをつま弾くような、大仰じゃない、押しつけがましくないけれども、たしかに「なにかの表現」であるものも多く存在します。
何か伝えたい強い思いなどがないと軽々しい、ということはなかろうと考えます。
そういった思いの強い作品と、見る側に息継ぎをさせる行間のような作品、そして風のようにさわやかに、後味よく速やかに吹き去るエンターテインメント作品。
これらのバランス、重要だなと。
そんなことを最近思っているので、備忘録としてメモしておきます。
自分のブログ読み返さないタイプだから書いてても意味ないんだけど。
たまに役に立つことがあるので。
はい。
また。