私が生きてちゃいけない世界にいたときの話

かつて、私が住んでいたのは、私が生きてちゃいけない世界でした。

私が生きて存在しているとすべてが悪い方向に向かっていく、私という人間が諸悪の根源である、そういう世界に私は住んでおりました。

その世界で何かイレギュラーが起こったとき、あるいは近々にイレギュラーが見込まれる状況になったとき、解決に向けての最適解はいつも、「私が消えていなくなること」でありました。

それなのに、私という卑しい人間は死を恐れ、この世界にあさましくも居座りつづけておりました。

私は、自らのそうした図々しさに対して強い嫌悪感を覚えました。
そして、自傷的・自虐的な行為にどっぷりと浸かりこむことで、世界に対して言い訳をしていました。
具体的な方法としては、ネットかテレビで知り得た、よくあるやり方だったと思います。

だけれども、この自虐的な行為は「自己顕示欲・承認欲求を満たそうとしている」として人々に不快感を与えることがわかり、私は自罰の手段を考え直さねばなりませんでした。

自傷行為というやり方は封じられたけれども、このようなあくどい自分に何の罰もなく安穏と生きながらえるというのは、自分の中にある正義感が許しませんでした。

罪は裁かれなければならないし、悪は滅びなければならない。

この世に、はっきりと「悪」と定義できるものはほぼないのだけれども、たったひとつだけあって、それがまごうことなき自分自身であるということを、明確に強く認識していました。

自分がどうしようもない悪であることに対し、深い悲しみや悔しさを感じていましたし、世界に対してたいへん申し訳ない気持ちがありました。

ふつうの、優しくて正しい人になりたかった。

しかしながら、私が周りのすべての歪みの根源であることはその世界では揺るぎのない真理であったので、私にはどうすることもできませんでした。

しかし、これだけ自分を責めていたくせに、だったら徹底して遂行すべきだった償いに対して、私はストイックになれませんでした。
ろくに罪も償わずに、酒を飲み、3食を吐くほど食べ、時々遊び、いやなことをされると怒り、仕事をして金銭を得、挙句の果てに、あろうことか楽しいと感じる事柄に興じることすらありました。

そのすべての行為は悪そのもので、あってはならないことでした。
ですから、そのような軽薄な行動を取ったあとは必ずそのことを何度も反芻し、世界に懺悔し、自分で自分を罰しました。

ものを考える人間としての私は「絶対に自分はこの世に存在してはいけない」とわかっているのに、生物としての私は、あろうことか豊かに生きようとするのです。
それがいけないのに、生きてはいけないというのに、ただの生物にはそれがわからないで、いやしくも、ものを食い、眠たければねむるのです。

非常に矛盾した、自己嫌悪と自己擁護のはざまに落ちて、いよいよこれは許されるわけにはいかないと自決を試みましたが、意気地のない私にはそれが完遂できませんでした。
このこともまた、その世界ではひどい悪であり、非常に罪深い事柄でした。

ここですべてを過去形で語っているのは、「その世界から抜け出したから」というわけではありません。

私も、世界も、なんにも変わっていません。
ただ、ひとつ何となく思っただけです。

「世界」って、そもそも最初から、なかったのかもしれないと。

いや、こういう言い方だと、なんか胡散臭い新興宗教みたいになっちゃいますよねえ、へんなスピリチュアルとかハマってないですよ。
なんていえばいいんでしょうね。

世界って、なんも言わないんですよね。
何も決めないし、何もしない。
「ある」も「ない」もない。
なので、人が生きていいとか生きちゃだめとかいう概念がそもそも、ない。

エゴチズムっていうんですか、主我主義? 自我主義? 一般的な定義はよくわからないんですけど。
大量の自我だけがあって、ほかは何もない。
自我が集まったときにけんかにならないように、決まりが後付であるだけ。

だけど、当時はものすごく強い確信として、あったんですよねえ。
私ぜったい生きてちゃいけないって。

私がかつて住んでいた「私が生きてちゃいけない世界」というのは、いったい何だったのでしょうか。

まさか、ナンだったのでしょうか。

焼きたての、ナンだったのでしょうか。

それとも、チャパティでしょうか。

「チャパティが尽きてちゃ売れないカリー」だったのでしょうか。

私はライスがいいです。

きのこ、元気です!!

お疲れさまです。