何かを描きたいんだけれども描くものが思い浮かばない時がある話

表題のとおりです。

よく、あるのです。
ちょいちょい、あるのです。

真っ白な紙にとりあえずなにか描いて、描きたいものがあるわけではないから案の定ぜんぜんつまらない絵で、だめだこりゃとグシャリまるめて、そんなことを繰り返しているうちに寝る時間になっているなんてことが、それはそれはよくあります。

「わしゃ何がしたいねん」
「資源の無駄遣いか」
とは思うのですが、何かは、描きたいのです。

私は本当に、描きたいのでしょうか?

もしかしたらこれは、自分の中にあるなんらかの感情を、頭の中で「描きたい」と誤訳をしていて、だから実際には何も描けないのではないのかしら?

私はこういうとき、描きたいんじゃなくて、どうしたいんだろう。

だいたい、やるせないような情動が心のなかにあるときに、「描きたい」と感じているような気がしますね。
そう、力いっぱい、めいっぱい筆圧をこめて、絵にならないスチールウールの塊みたいなものを、ぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃ描き殴りたいような、そんな時。

こういうような。

私は、本当は誰かにすごく伝えたいんだと思うんですよ、そういう、どうしようもない感情みたいなものを。

けれども、その感情を訳せる言語が世界のどこにも存在しない。

上の画像も、ちょっと違う。
公開するために描いたから、「こういう時はこう」という先入観が入っていて、私が本当に心底で思っていることそのままじゃない。

ヘタに言語化するのは、ときに、あぶない。
どうしてかと言うと、人は言語にすがってしまうことが多いから、言葉にしてしまったら、本当の感情は厳密にはその言葉に100%合致するわけではないのに、そこに凝り固まってしまうことがある。

言語に限らず、絵や音楽も言葉と同じで。
「誰かに伝えたい」と思ったならば、そのためには必ず誰かの波長に合わせて作り上げなくては伝わらない。

そうすると、言葉や、描くものや、つくる歌を、ひとに伝わりそうな共通言語みたいなものに翻訳しようとして、本当に自分が思っているところとは違うところに自分を落とし込んで、ヘンに納得してしまったりとか、するんですよね。私はね。

そんなだったら、その絵にも言葉にもならないぐちゃぐちゃは、絵にならなくても言葉にならなくても歌にならなくてもよいから、そのままのかたちでぐちゃぐちゃのままで紙なりテープなりに吐き出して、誰にも評価させずに大事にとっておいて、今後のものづくりのネタとして温めておくほうがいいのかも。

いつか、それを言葉や絵や歌に正しく翻訳できる日まで。

自分だけは、そのわけわからんぐちゃぐちゃを解読できるわけですから。
ただ共通言語に翻訳ができないだけで。

う〜ん、やっぱり私は、そうだなあ、つくる人間としてはカッコ悪いかもしれないけれども「見てもらいたい」「知ってもらいたい」「好いてもらいたい」という気持ちがすごくあるし、人を喜ばせたいし、喜んでくれたり共感して楽になってくれたらうれしいし、自分がうれしくなれるようなことをいっぱいしたい。

だから、言語に限らず、絵の語彙力、歌の語彙力、いっぱい増やして、「伝える」ができるようになろう、と思う。

作っている最中は完全に一人になりたいタイプなんだけれども、よいものが描き上がってもひとりぼっちなのは、さびしい。私は。

精進します。

私の感情を翻訳できるのは、私だけだ。