誰だって、興味がある事柄には頼まれなくとも熱心に取り組むし、乗り気じゃないけどやらなきゃいけないことに取り組むのは面倒くさいものでしょう。
生まれてから36年間、自分と自分以外の人を何度も何度も見比べてきましたけれども、非常に多くの方々が「興味を犠牲にして義務を果たす」ということをやり遂げてらっしゃることに、とても驚かされます。
私は、興味のない事柄に取り組んだり、興味がある事柄の実行をがまんするのを、非常に苦手とします。
高校生のころには、期限までにやってこなかった宿題をついに居残りでやらされたら高熱が出て、帰って寝たらなおりました。
最近も、障害年金の受給を申請するのにずいぶんたくさん書き物をしなくっちゃいけなくて、それが途中でもう心底いやになって本当にあきらめそうになってですね、夫やお医者先生からケツ叩かれてギリギリでなんとか仕上げたりなど。
一瞬だけエイと気合を入れてサッサとやってしまったほうが確実に自分に利があるのだとしても、てんでダメなんです。
継続的に2ヶ月に一回13万円ほども受給できる、その権利のためであっても、一人の力だと完遂できませんでした。
もうその性質そのものを治すのは無理だと判断し、今は、「タスクに対してなるべく興味を持てるように思考を持っていく」という方向性でやっています。
これまでの人生、いちばん自分自身を苦しめたのは、この性質かもしれません。
だってね、どこからどう見てもただのダメ人間じゃないですか。いやなことはやらないか、やってもすぐやめて、やりたいことしかやらないんだから。
私ねえ、ちゃんとしたかったんですよ。
ちゃんとした人間になりたかったんです。
まじめにやりたかったし、ばかにされたくなかったし、誰にも迷惑かけたくなかったし。
でも、どれだけ泣いても自責しても、どうしてもできないんだから、もうあきらめるしかなかったんですよ。
で、やりたくないことが全くできないっていうのを「周りに対して申し訳ないことである」と認識して、「ごめんなさいごめんなさい」って小さくなりながら過ごしていたんですけど、なんかねえ、ずっとそれやってたら、なんで生きてんのかよくわかんなくなっちゃったんですよね。
もう全部いやんなっちゃって、ずーと沈んだ生活してたんですけど、あるときふと、「徹底的にそのままで行って、笑って突進して、それで死んだら死んだでしゃーないやん」と思ったんですよねえ。
そしたらなんかあれよあれよという間にシェアアトリエとかやり始めちゃって、今のような仕上がりになってるんですけど。
葛藤はしますけどね。ほんとにやりたいことしかやらないで済むなんて甘いこと、あるはずないだろうって。
でも、「あるはずない」って誰が決めたのかなあ?
人間、誰でも人生一回しかできないのに、なんでやってみてもないことが分かるんだろう。
あんまり気が進まないタスクを「まあやってあげなくもないけど5分だけよ」ぐらいに持っていける程度のコントロールはとれるようになってるし、まあ、向かう方角としてはいいかな。といったところです。
義務を優先して、ぼろぼろになりながらまっとうな人生を歩むこともできたのかな?
わかんないですね、私は過去に対して「もしも」を考えない人間なので。
んーやっぱり「これは必ずこうであるべきだ」みたいな、いわゆるべき論という考え方は、原則として好きじゃないな。
下手すると人間を壊すおそれのある考え方だから。いろんな人間がいますから。
私のはサボりだったのかな? という恐れはありますけどね、考えないことにしていますね。
まあいいでしょう。うん。
はい。
締めが難しいね。
酒がうまい。
まったねー。