ドリーミー過ぎてドン引きされそうな話

私はかつて、どちらかというと負のエネルギーを原動力に創作活動を行うタイプでした。

でも単純に「負のエネルギー」と言ってしまうと少し違和感があってですね。
私は、私がうつくしいと思うものをつくっていただけなんですよ。

別に、めずらしい美的感覚じゃありません。
夏の終わりには「あの子」がいて、笑ってて、白いワンピースと赤いリボンがゆれて、腕はぎざぎざで、ひまわりがうなだれて、あ、って言ったらいたずらみたいにいなくなって、いつの間にかぜえんぶ終わっていて、だけどたぶん「あの子」はちょっとずるくて、なんでも無い顔してぬけぬけとどこかにいて、そして「僕」と呼ばれる人間はただなんとなく、いるんだかいないんだかわかんないあやうさで、その目に見たものを私に貸してくれてる。

そのなかの誰にも、本当は、名前もない。
ときどき適当に呼び名がつくだけで、ほとんど、いないとおんなじ。

私の中の世界、すなわち「あの子」と「僕」の関係性というのは、息をするのも忘れるくらい、時間が一秒も経たないくらいうつくしいもので、でも、残念なことに私そのものはあんまり美しくなかった。

だから、たぶん私は、自分自身と物語を完全に切り分けることによって、その世界のうつくしさを守りたかった。
私は身の程をわきまえてすっかり道化になって、心の中の風景は歌と絵の中にだけあった。

今でも時折、私の中に今でもあるとてもうつくしい世界が、大きくなりすぎた道化に食われそうになるときがあって、私は一生懸命それを守っているんだけれども、生活を成立させればさせるほど、どうも道化がでかくなりすぎる。

たまにはねえ、センチメンタルを復活させとかないと、ペラッペラのカラッカラになっちゃうわ。

夏の終わりはさみしいね。

ことしも、

ねえ。

ぬるったるい雨。

終わるねえ。

うふふふふふふ。

たまにはね。

また。