ひとの承認欲求を嗤うのはどうかと思う話

自分語りになるんですけどね、うちの家、典型的な「昭和の遺した粗大ゴミ」みたいな感じの家庭で。

男を立てろ、家長を敬え、みたいな。
子供は親の所有物、女は家来、みたいな。
人間として尊敬できるかどうかを度外視して、あくまでも立場やレッテルを尊重しろみたいな。

私は、仕事をみんな母に押し付けた挙げ句に酒飲んじゃあ怒鳴り散らして、パチンコ狂で、その体たらくで偉そうに「父親に向かって何だ」とか抜かす父を全く尊敬できず、反抗ばかりして暮らしていました。

人間として尊敬できない、ただ種を仕込んだだけの人間に従順であることを強要されっぱなしでいられるほど、ぐっと自我を押し込められる人間ではなかったので、家の中では凶暴な問題児扱い。
「お前が表面上だけおとなしくしてればうまく行くんや」「もっとうまくやればいいのに」と、兄にもよく言われました。

今は父も私も丸くなって、一定の距離を保った付き合いはしていますけれどね。

そんな感じで、私は、「私」という生き物ではなく「女・子供」として扱われ、ただシンプルに自己であるということは認められない状態で育ってきたわけです。
たぶん同年代ぐらいの親を持ってるひとは、結構あるあるじゃないかなあと想像します。

そういう家ですから、なにしろ、褒められるっていう体験がないんですよね。
だって、父親の思い通りにいかない子供でしたから。だから、どんなにいいことしても、褒められません。
なぜなら、私は、父親の期待通りの「従順なおとなしい女の子」ではなかったから。
おかしいと思ったら相手が誰でもすぐ突っ込んで、自分が納得するまで質問攻めしてしまい、部屋は散らかり放題で、皿を洗わせると必ず割る、木の枝を持って走り回り、人形は吊るして遊ぶ、スカートも長髪もイヤイヤをする、ニッコニコの愛想も、嫌いな父親には向けずに周りにだけ振りまくので、まあ怒られるばかりで。

で、私が例えばいい絵を描こうが、いい声で歌おうが、日本舞踊で賞を取ろうが、道に迷ったひとを道案内しようが、そこは絶対に褒められることはない。
一回もなかったですね。
そこは、完全に、無関心。悪いことしたら怒られるのに、いいことしても褒められない。ザ・減点方式。
そこに疑問を持って、文句言っても、「お前の頭がおかしい」と怒鳴り散らされて、他の家族も火に油を注ぐまいと目をそらして、誰も助けてくれない。孤立無援。

いや〜〜〜自尊心バグりますよね〜〜〜。

ほんで大人になったらなったで、こういう話は「そんなの大したことじゃない」って不幸経歴チキンレースみたいなのに巻き込まれるので、発露の場もなかなかないですし。

そんなだったからこそ、今「ひとは自分たれ、そして個であれ、あとみんなもっと褒められろ」みたいな考え方にこだわるようになったんですけどね。

でね、今はそうでもなくなりましたけど、一時期、いろいろこじらせちゃって頭おかしかったんですよね。
細かい内容は言いたくない。まじ、クズエピソードだから。

そういうの経ているので、なんか、暴走しそうな承認欲求と必死で戦っているひとをゲラゲラあざ笑うひと無理だし、そもそも作品の発表など健全な方法でそれを満たそうとしているひとまで嗤うのも、きらい。
あと、自分でわかっててわざと暴走させてるひとも、これは嫌いにはなれないし悪だとは言い切れないけど、にがて(接しようがないし救いようがなく、ただ離れるしかないから)。

なんかさあ、「承認欲求っていう言葉で叩けば恥をかかせることができる!」って意気揚々とこの言葉つかうひと、いるよね。
きらいだな〜。そのやり方。
過去に自分が言われてくやしかったことを誰かにあてつけているのかなあ、そういうのって。

承認欲求そのものは、はずかしい感情ではないと思うんですよね。ただ、それを健全な形で発露して、いい感じに認めあえたらいいねみたいな、そんな考え事でございました。