びっくりするほど職人気質とカリスマ性がない話

私ねえ、曲がりなりにもものをつくる人間としてちょっと恥ずかしいんですけど、「職人気質」というものを一ミリも持っていないんですよ。

とにかくザックリとしてどんぶり勘定、絵なら色塗りがはみ出してようが気にも留めず、「全く同じことを丁寧に反復して行う」が苦手でパッケージングなども数こなすごとにどんどん雑になってくる。

また「ものが整然と並んでいるか」「等間隔であるか、またはきちんと平行であるか」「こまかいホコリ等がついていないか」などに非常に無頓着で、さすがにひとさまのものは気にしますが、自分のものとなると本当にどうでもいい。

典型的な「こまけえこたぁいいんだよ!」気質ですね。
四角な座敷を丸く掃くってやつです。

じゃあこだわりみたいなものは全然ないのかというと、それはそれであるんです。私なりのやつが。わがままボディなので。

特に「すごくない」「できないもんはできない」っていうことには、ものすごくこだわっている。

たとえば、シェアアトリエとかそういったものを主催する人ってふつう、めっちゃ絵ーうまかったりすごいセンスがあったりするじゃないですか。
でも私はそうじゃない。あえて卑下まではしないですけど、至ってフツー。
私よりも、来てくれる人たちのほうが絵がうまいし、センスあるし、画材もくわしい。

そして私の、「ド下手くそ」ですらない「至ってフツー」というのは、はっきり言って絵描きとしては結構ダメ。

でも私は、それをむしろ自分の強みだと考えてるんですよね。

「できちゃう人」「すごい人」は、なにしろ、できちゃうしすごいわけです。

できちゃうということはどういうことかというと、もう二度と「できない」ができないんですよ。

そしてこの世には「できない人」にしかない、なんというかある種類の説得力というものがね、あるんですよ。

技術やセンスで食っていくとあらば、「できない」より「できる」のほうが、何かと便利です。アーティストには、カリスマ性があると非常によい。
でも私はそうじゃない。絵そのもの、あるいは絵のスキルを売って食っていく生き方ではない。
たぶん私は、自分自身を売っていくスタンスと言うよりは「人々に、なんらかの形でなんらかのサービスや娯楽などを提供して、それを楽しんでもらう」という生き方が向いているし、これからそうやって生きていくことになると思う。

その生き方において「私自身がものすごい何らかのスキル(絵がめっちゃうまいとか)を持ってる」となると、まずいんですよ。
そういうカリスマ的な人が「人々に、なんらかの形でなんらかのサービスや娯楽などを提供して、それを楽しんでもらう」をやってしまうと、絶対に盲目的なファンが現れてしまうから、それってもう怪しい新興宗教とあんまり変わんなくなっちゃうんですよね。

となってくると、
「凡庸」「できないことがある」「飛び抜けてすごいところがない」「対等にしかなれません」
このへんって、すっっごく重要なスキルになってくると思うんです。健全な在り方のために。

そのあたりが、最近私が「あー、自分はサービス業の人間なんだなー」と思うようになったゆえんです。
私、カリスマ性、ないんですよ。完全に「その他大勢」キャラなのです。
それがコンプレックスだったときもありましたけど、今はなんかこう、だからこその良さや、それでいて楽しむコツみたいなものをつかめてきたかもしれないです。

カリスマ(今はインフルエンサーっていうんですか?)はちょっと憧れますけど。

いやあ一生なれないでしょうね多分。

なにせ体力がありませんもの。

まじで。

一回なってみたいですけどカリスマ。すぐ飽きそう。
私やっぱり、自分がめっちゃフィーチャーされるより、「フィーチャーされたい人に喜ばれる」みたいなことをやりたい。
いや、ちょっとうそついた、私もフィーチャーちょっとぐらいはされたい。全くされたくないわけじゃない。だから結局「全員わしの道連れ」みたいなやり方になっちゃう。

何の話かようわからんやったですね。

また。