ひとは成長とともに不条理な感性をうしなってゆくのだらうか

私はもはや、「不条理系ギャグを描く時、私は不条理っぽさを狙ってやっているのか、本来の感性としてやっているのか」の見分けが、自分ではつきません。

自己評価として、自分自身のキャラクターは「多少変わった部分はあるものの、こういう人ちょいちょい、いるよね」ぐらいのタイプだと思っているんです。
俗にいう「その時代にわりと一般的・王道とされる暮らし」からは若干ずれるんですけど、じゃあものすごくぶっとんでてズレまくっているかというとそうでもないという。

ただ、未成年ぐらいのときに関しては、なんかちょっとマジでトンチンカンというか、常識なかったんですよね。
中学生という年齢で、ふつうにバスの中で高らかに歌を歌ってて友達に怒られたりとかですね。「怒ってくれた」と言ったほうがいいですね。多分指摘してくれなかったら他人に怒られるまでそのままだったと思うので。
自分としては全然悪気はなかったんですが、「自分の感覚と他人の感覚は違う」というのがわからなかったというか、自分が「したい!」と思ったことに対して「でもまわりの都合が…」という考えを持つようになるのが、周りの同世代と見比べた際に、少々、いやかなり遅かったかな。という感覚があります。

あのまま我が道を行っていたら、たぶん、とてつもない自分勝手な人間のままだったろうなと思います。
「もう金輪際、ひとに迷惑をかけるのはいやだ」というのがあって、けっこう必死に矯正したところがあるんですけれど、それはある程度ですが成功をして、昔よりはひとさまに忖度ができるようになりました。
それでも遅かったですね。自分で「なんとか『よい生き様』に指先が一ミリだけかかった」と思えたのは33過ぎてからです。

でもねえ、どうでしょうね。
ものをつくるという観点から言うと、その努力は果たして、どうだったのかなあ。
私は、「人の顔色を伺う創作活動」をやらかしてはないだろうか。と、たまに振り返ることがあります。

ときに、私はこれまで、小さい子と接する機会ってなかったんですよ。ほぼ「全く」と言っていいですね。
夫方の甥っ子姪っ子くらいか。

最近シェアアトリエをはじめたら、友人たちがこどもを連れて遊びに来てくれたりするようになって、小学生くらいの子たちとあそぶようになったんですよね。
したらね、もうほんと自由なわけなんですよ。
たぶんですけど、ちいさい子って、Aという不条理なものを作った場合、それを作った理由はシンプルに「おもしろいと思ったからそうやった」だけなんですよ。

たぶんね、一応、「これはきっとみんな笑うはずだ!」という策略も、無意識下で練ってる部分はあると思うんですよ。
「こういう方向性でやるとみんなが笑ってくれるぞ!!」という経験則みたいなものは多分あるんです。

けれども、彼ら・彼女らには、まだ「積み重ねたTPO」がないんです。
それがね、サイコーなんですよ。

たとえば、「格式高い場所では静かにしましょう。」と同じく、「格式高い展覧会では格式高そうな感じで描きましょう。」って、経験を積むとどうしたって、考えてしまうわけですよ。
それをついつい考えてしまったうえであえてハズして雑に描くっていうのは、それは言葉悪いですが「逆張り」であって、ナチュラルボーン不条理ではないんですよね。

おとなになっちゃうと、ほんとに何も考えず、空気読むという発想すらなく、物事を自然な形ではっちゃけて「これが正解だ!」と信じ切って完全に不条理なこと出来るタイミングって、すごく限られてるんです。
嫌でもいろいろ知ってしまってるから。
知っててやったならやっぱり、それはわざとハズしたことになっちゃうんですよね。くやしいことに。
私はそれもあって、あんまり既成の知識とか入れたくなくて、本読まないんですけど。

で、タイトルに戻るんですけど、「ひとは成長とともに不条理な感性をうしなってゆくのだらうか」という問いについては、感性を失うのではなくて「その感性をそのまま発揮していいのか一瞬の迷いが生じ、それを避けてしまうか、あるいはそれを振り切って描いたさまが、わざとらしさとして作品に出てしまいがちなのではないか」が今の私の応答ですかね。

「これが唯一の正解」っていうのがなくて、「正解感が合うタイプの人とゆるくつながる」みたいな世になっていったら、もうちょっとそれぞれの個性を生かしていけるかなあ、というイメージを持ったりしていますけれども。

ただ、お金稼ぐ話になってくると、また都合が変わってくるんですよねえ。
お金稼ぎは、ひとさまのニーズに応えれば応えるほど手っ取り早いわけですから、個の意向を推し進めてうまくいくのは、たぶん運がよくない場合は時間がかかると思いますよね。

でもねーなんか、ちょっと話ずれるんですけども、私、金銭面・社会面でいうとまったく成功はしてないんですけどシェアアトリエ作ってすごく楽しいんですよね。
大変な時はありますし、儲かるようなものじゃないですし、お金も労力もかかることなので万人に勧められる生き方ってわけではないですし、たぶんお商売としてはすごく不条理・非合理なんだと思いますけど、でもすっごく充実感はあるのですよ。

ほんとにねえ、謙遜とかじゃなくて、私けっこうなポンコツなんですよ。
こう、グッズひとつ作れば、公開した瞬間飛ぶように売れるような人とか、いるじゃないですか。
私そうじゃないもん。弱小っていうんですかね、まさにそれですよ。
グッズ15種類作ったうちの1個売れれば飛び上がるほどのハッピー、御の字。そんなぐらい。

でもねえ、なんかねえ、なんだろうな。
そういうところ含めて、なんかこう、「そういうキャラクター」としていい感じに機能していると言うか……
私がつくるグッズとかはとりあえず置いといて、それ以上に私本人を気に入ってもらえてるようだという実感があって、なんかその部分が私の充実感とか満足感につながってるんですよね。

私が、きのこの世界の法律でものを語っても、若干許される感じというか……
きのこの世界の法律が、意外とフィットしてくれる人が多いというか……

だから、アトリエもあんまり疲れないでやれてるんだと思うんですね。
私、たぶん、自分と似たようなタイプの人に「この世のどこかにこういう場が存在している」って安心してもらうのが目的なところあるんですよ。
そういう人々が実際にいらっしゃるかどうか別にして、「人の悪意とかを恐れなくていい場所がこの世に存在することは可能であり、いよいよ追い詰められた時は飛行機でもなんでも乗れば駆け込める場所を自分は知っている」って心のどこかに覚えといてもらいたいみたいな……

そうなると、この日記のテーマたる「不条理」からちょっとズレてしまうな。
条理、あるやんけってなってしまうな。

いや、どっちも持ってるのが人間ですよ。
共感もほしいが、不条理な感情・感覚も持っている。
そのバランスを、適宜とりながら人はいきてゆくのだ。

わけわからんくなったよ。

まあええがな。

わしのブログやし。

のむか。

また。