信頼できる人の言ってることでもあんまりガッツリ信じてない話

私ねえ、人の言ってることあんまり聞いてないんですよね。

特に、伝聞・仮説の話でも断定形で話す人いるじゃないですか。
よくいるのが「ADHDってこうなんですよ」みたいな。「どこそこの学会の調べで、ADHD者の多くはこうであると言われています」とかじゃなくて、「こうなんです」って断定するみたいな。
そういうパターンは信じる信じない以前に、ほとんど話として聞いてないです。聞いてないと言うか、あとで情報として覚えてないです。

私にとってよくわからないのが、「その事柄は、どの時点で『一説(仮説?)』から『真実』になるのか」なんですよ。

たとえば、水は原則として0℃で凍って100℃で沸騰するとされてるじゃないですか。気圧とかとりあえずおいといて。
でもそれって、「凍ったときの温度を0℃と呼びましょう」「沸騰したときの温度を100℃と呼びましょう」であって、「0℃になると凍る」「100℃になると沸騰する」ではないじゃないですか。厳密には。
人が後付でめもりをつけてるだけのものであって、ほんとに、凍ったときの0度はいつも同じ0度で、沸騰したときの100度は絶対にいつも同じ100度なんでしょうか。

と、さすがに上記は屁理屈というか詭弁なんですけど、私これ、突きつけられても答えわかんないんですよね。
なぜなら自分自身で何度も何度も実験を繰り返して有意といえるぐらいの数の根拠を得たわけではないから、「私より圧倒的にかしこい学者さんが調べたことには、〜〜となっているらしい」までしか言えないんですよ。

そしてね、私はこの「水が変化する温度」という情報を小学生のときに理科の授業で仕入れましたけれども、ではその情報の絶対的な信憑性を担保するものは何なのかということなんですよね、これに対する答えが私の中であいまいなんですよ。

学校で習ったら、なのか。
みんなが言ってたら、なのか。
えらいひとが言ってたら、なのか。
本に書いてあったら、なのか。

とグルグルグルグル考えていたら、めんどくさくなってきて「しゃらくせえ、人間は飯食ってうんこして寝て起きてりゃ上等だ」に着地するんですよね。

「誰それが言ってたから真実だ」という考え方があまりなくて、「自分の直感としてはこうだった」「Aさんはこう言ってた」「Bさんはこう言ってた」「Cさんはこう言ってた」というのを集めた結果「私はこう思った」という自分なりの仮説をたてるしかないよねえ。という考え方です。

さらに、私は「自分の信じているものしか存在しないなんてありえない」と思っているんですね。
たとえば、私は幽霊とか神的なものの存在を全く信じていないんです。スピリチュアル系とか占いも信じないですね。私の感覚でいうとちょっと話の根拠が薄いかなと思うからです。

ただ、「私はそれを信じていないから、それはこの世に存在しない」あるいは「私が信じていないものはウソである」ってなってくると、私がルールであり私が世界を統べる神様ってことになっちゃうでしょう。
それはありえないと思うので、「私個人はそれらを信じていないけれども、それはイコール「この世に無い」を意味するものではないよね」みたいに思うんです。

その考えは持っとかないと、そのうち例えば「自分が想像できない病気・障害はこの世に存在しない→だからこの人の困り感の訴えは甘え、ウソ」という差別偏見に繋がりますしね。

話戻さないと収集つかなくなりそうですね。
ほら、どんなに偉い学者さんが提唱した説でも、後年になって覆ったりするじゃないですか。
だからね、何でも話半分ぐらいに思っとくのがいいような気が、私はするんですよね。

相手が信頼できる人であっても話半分ぐらいで聞くんですからね、何でもかんでも断定形で話す人の話は特に、話半分からさらに4分の1ぐらいで聞いていますね。
自分で実験しまくって得た答えではないとしたら、それはいちおう伝聞にあたると私は思ってるんです。
なんでも断定形で話すということは、話の内容が「誰それが調べた伝聞の話」なのか「自分の感想」なのか、どの程度の確度を持った話なのか、根拠となるものは提示できるのか、そこらへんを相手に正確に伝える努力をしない人が話手ということになるので、なおのこと信じないのです。

そういう奴、なんか突っ込まれたときに読み手の読解力のせいにしがち(きのこ調べ)。

今とくに、いろんな情報が飛び交って何がなんやらじゃないですか。
んなわけねーだろみたいなデマを平気で拡散しまくってる人がいてみたり、「ワイ高みの見物」アピールしたくてしょうがないだけのバカがいてみたり。

もう、何が世界の真実だとかこれが正解だとか、うっせバーカって感じなんですよ。
とにかく、自分の持てる限りの良識やら勉強してきた知識やら各々で総動員して、ちゃんと自分でいろいろ考えて、「こうあるべきだ」と思うことをやるしかないでしょうよね。
未来どうなるかなんて誰にもわかるわけがなく、当て物でしかないでしょうに、なんでそんなに「ひと味違うオレ」になりたがるかね。
って私なんかは思うんですけどね。

と、おなじみの「ツイッター上であまりにも嫌いすぎてやりとりしたことないのにブロックしてる界隈」をひさしぶりに見かけて、思いました。

けっこう俗な人間なので、精神的に余裕があるときにかぎり、ブロックした相手とかわざわざ見に行くことがあるよ。1〜2年に1回くらい。
それで、「相変わらずクソまきちらしてるなあ……」と思って閉じるの。

私も大概やな。
それもう、やめよ。

また。