みっともない感情を覚えたさいにごまかしてしまわないことを心がけている話

私ねえ、完璧にできてはいないんだけれどもいちおう気をつけていることがあって、「自分がみっともない感情を覚えたさいに、それをごまかしてしまわない」っていうのなんですね。

たとえばそうですね、誰かからクソ意地の悪い嫌味を言われたとしましょう。
そのときに、私は本当はその場ではスルーをして、あとで「あ、そんなの言われてたんですか〜初めて知りました〜なんとも思ってませんけど〜」っていう態度をとりたいわけです。そのほうが、こっちが上って感じが出ますから。

でも、それってウソなんですよね。
私はけっこう気にしがちなタイプだし、くやしがりなので、実際には「あ? 今なんつったもっぺん言うてみぃ録音して訴えたらぁクソが」って思ってるわけです。

そういう感じで「嫌味を言われてまんまと悔しがっている」ってハタから見たらわりとダサいわけですけど、そこを自分の中でごまかして「全然気にしてませんけど?」と自分の中で思い込んでしまうことを、自分で気づけるかぎりですが避けているということです。

反射的に感じたクソダサ感情を、全部が全部「こう感じました」って表出させるわけではないのですが、「うおっ自分ださっ!!!」というのを自分で認識するようにしてると言いましょうか。

こういった「自分にとって理想的ではないが、持ってしまった感情」みたいなものを「この感情は自分のものではない」としてしまった場合ね、すごく精神衛生上悪い気がするんですよ。

本質的な問題解決に至らないというかね、「うわっ、こんなん思ってしまった自分ちょっと嫌いやわ」と感じたとしても、いったんこれを認めてから表出するなり飲み込むなり考え直すなり判断するっていうことをしないと、ちょっとずつちょっとずつ人格ごと歪んでいって最終的に病的な状態になる気がするんですよね。どう考えても理屈がおかしい自己正当化や、横暴にも近い責任転嫁に走ってしまったりとか。

仮に、「これは、こう感じるのが善です!そうじゃない場合、悪です!!」っていう指標が、仮にですよ、仮にあったとしますね(仮ですよ。ないですよたぶん)。
それを「これが善、これが善」って思い込む前にですね、いったん自分の未熟さとかゆがみの部分とか、逆にこう考える部分は悪くないなとか、素になった場合に考え方のクセがどうなってるのかとか、とりあえず見ないことには、治したかろうが治したほうがよかろうが、治しようがないじゃないですか。
無理やりその「善(仮)」を思い込んでても、本音と建前がどんどん解離してつらいだけですし。

わざと露悪的に振る舞って人に不快な思いをさせるふるまいは個人的に好きじゃないんですけど、自分の中でだけは、悪人なんであれば悪人でもいい気がしているんですよ。
その「悪人」ていうのは、社会的に とか 倫理的に みたいなことではなくって、「うわっ、自分こんなことを考えてしまう、ダサい」みたいなことをここでは意味してますよ。
で、悪人なのにそれを認められずに「いいや! 自分は善であるはずだ!」って自分の中で思い込もうとして、そこに必死で理屈を貼り付けて固めていくなかで、「病的」っていう状態になってくるんじゃないのかな。

にんげん、ほころびぐらいあるよ。
クソ性格悪いこと考えるときだってあるよ。
それでいいじゃんねー。

なんて思ったりしますけどね。今は。昔は、聖人君子じゃないと生きていてはいけないと思っててきつかったですけど。

まあ、そんなんですよ。

へぇ。

ほぉ。

じゃ。