うれしい悲鳴(いそがしくてブログを書くタイミングがない)

めちゃくちゃありがたい話で、この一週間はいつも誰かしらねじろに来てくれていて、ブログを書くタイミングがなかった。

またレイアウト変えたいなあ、という欲が。
レイアウトを変えるというか、席数を増やすというか。
メインの机に同じ高さの小机をくっつけて、作業スペースを広く取れるようにしたほうがよさげなんですよね。

まあ、でも追々ですね。

最近はやっぱり、コロナがちょっと心配ではあります。
これについては、正解っていうものがよくわからない中で、私なりに一応考えはありますね。

結論から言うと、ねじろは細々と、閉めずにやっていく方針です。
これは決して「国はオリンピックやるくせにー!」とかそういう屁理屈ではなくてね。
たぶん正論で責められるとすんなり負けるタイプの理由です。

長期に渡る、真綿で首を絞められるような閉塞感の中で、もともと人とのつながりをそんなに求めてなかった方の中にもさすがに疲れが見え始めているのを感じます。
で、コロナ関連の疲れと、全然別の疲れが混同されてしまって、何かと刺々しくなってる。

たとえば単純に仕事に行くことに疲れていてつらいのを「コロナなのに休みにしない会社」みたいな怒りに変換してしまったり、もともと相手のことが嫌いなのを「コロナに対する対策が甘いヤツだ」みたいな怒りに変換してしまって、怒りの本質・根源を間違えてしまってる。

そして今、怒りをコロナ関連に変換するとだいたい「正解」になっちゃうから、どんどん頑なになっちゃって、疲れや怒りがどんどん悪い方向のエネルギーに変わっていってる人が多い感じがする。

私個人は、「お外出る時はマスクしなきゃだよね」「アルコール消毒は要るよね」「換気しなきゃね」「あんまり大勢いるところには行かないどこうね」「ご持病持ってる方と対峙するときは慎重になろうね」「それらはワクチン打っても変わらないけど、ワクチン打つことでちょっと気持ち的にあそびが持てるよね」という思考の前提を持ったうえで、そのときの状況によってはちょっと判断を甘めにとったりする くらいの立ち位置なんですね。
いちおう常識の範囲の対策はするけど、常に厳密な対策をとっているかと言うとそこまで神経質ではない、というくらいの立ち位置。

で、その前提で。
「ま、大丈夫でしょ〜」という意図でねじろを開けている、のではなくてね。

「私が悪者になるリスクは認識した上で、それでも居場所を必要とする方にそれを提供する必要性を感じている」

っていう、うーんちょっときれいごとになっちゃったけど、そこなんですねえ。

これは、いいことではない。多分。
誰にも突っつかれないで、最小のリスクで最善を取りたいなら、家でおとなしくしとくっていうのが、多分一番。

だけど、だけどね。
私は、「まあ、まあ、まあね、うん、まあしゃべるときはマスクぐらいしとこうかさすがに」くらいの温度感の、ひみつの休憩場所が必要だと思ってる。

くりかえすけど、いいことじゃないですよ。

突っ込みどころしか無い。

だけど、正義だけじゃだめなんだ。
今まさにこのときに居場所を必要としてる人に、「コロナだからダメです」なんて言ったら、本当にどこにもいられなくなっちゃう。

なんかあったら責任取れるのかって言われたら、そこ突かれると弱い。コロナ、実際に人が亡くなってますから。
でも、「責任取れないからやらない」って誰も手を出さなくて放ったらかされてきた部分に問題意識を持ってる人間としては、「責任が取れないから」を理由にしていいのか? っていうところがあるんです。

なので、積極的に呼び込むことはしてないけど、細々と営業はしている。
実際に人が来る・来ないに関わらず、「いざとなったらここに行けば開いてる」が重要だと思ってる。

うち、換気のよさには自信があってね。壁という壁が窓だから。

怒られないか、この記事。

知らん。

すまん。

突っ込まれたら素直に負けることにしてるので。

な。

また。