はらたつことをわざわざ考えるのが精神力の無駄なような気がしてきた話

いやなこととか納得いかないこと、こんなのは間違っている! と思うようなとかがあったとき、どちらかというと、それにとらわれてしまいやすいのです。

いやなことがあると、別な楽しいことが起きてそれに心を奪われるまで、しばらくはいやなことばかり頭に浮かんでしまいます。

「こう反論すればよかった!」と脳内再生してみたり、「次、もしこう言われたらこう返してやる」などシミュレーションしてみたり。
「これはこうこうこうで、こうであるはずなのに、ああなるのは、こうだからだ」と、いざという時に順序立てて説明できるように「なにがおかしいか」を考えて組み立ててみたり。

「だって、おかしいやんけ。おかしいやんけ。おかしいやんけ。」と、このように、とらわれてしまいがちなんですよねえ。

その内容は、我ながらおそらく大きく間違ったことは考えておらず、まあ一般的に見て正論、理想論、言っている事自体はまあ理はそれなりには通っている、そんなような場合が多いのですが、ただ、最近気づいたのです。

このいやなことのリプレイタイム、あるいはシミュレーションタイムが、ものすごく、無駄だと。

無駄だからといって意図的に無くせるかというと、自動的にアッと思い出してしまうことも多いので完全には無くせないのですが。

ただ時々、自発的に脳内反論をこねくり回しているときもある事にもうすうす感づいておりました。
これは、「こっちが間違ってるわけじゃないのにめちゃくちゃ言われて、とっさにうまく切り返せなかった」というくやしさと、誰かに対してこれを愚痴ってスッキリするのはちょっと申し訳ないしカッコ悪い感じがしていやだ、という中途半端な考えからくるものです。

でもなんかねえ、見てたらねえ、アレなんですよね。
ありえないようないやなことしてくる人、みんな、状況はそこまで絶望的じゃないんですけど、潜在的みじめ みたいな感じになってるんですよね。

あんま言わんけど。
なんか、「あ、はい、おつかれ」って感じになってる。

なんかねえ、反省とか、じゃあ今後どうしたらいいか考えるとか、そういうのは未来につながっているのでいいんですけど。
そうでなく、やなことわざわざ反芻して考えるのって、本当に精神力の無駄やわなあ、と、最近になってようやく思うのです。

けっこう最近まで、それを誰かが親切に諭してくれても、「いいや! 私が間違えてるわけじゃないのに相手がゴネて得するみたいでいやだ!!!!!!!!」って意固地になっちゃってですよ。

でも長い目で見ると、実感として確かに相手に因果が回ってるというか、相手が自分でかけた呪いに自分でハマってる感はある。
私にいじわるしてきたやつ、どいつもこいつも、いっつも不平不満ばっかり言って、高望みして、絶望ちゃんの振り付け踊って反省したようなつもりになって、実際は自分を改善する気もなく、結局満たされること無く生きてる。
言い訳に言い訳重ねて、どれが後付けの理由でどれが本当に思ったことかも、もう自分でわからなくなっちゃって。

「怒るだけ無駄、ほっとけ」って言われても、くやしいばっかりで全然納得できなかったけれども、最近になって、「あ〜、こういうことね、」という感じ。

なるほど、これは確かに、無駄です。
実際に自分で体感しないと納得いかなかったけれども、うん、みなのおっしゃるとおり。
無駄です。

結局、実害あるならば粛々と然るべき対応をして、そうでないならサクッと切って一切触らないっていうのが、なんだかんだ言ってやっぱり、ベストなんですねえ。。。

いやでも、自分でそう感じないと意味ないから、「そうしろ」とは思わないですね、だって無理じゃないですか。くやしいし。はらたつし。なんか自分のほうが意地悪みたいに言われたりとか。
だからなんかこう、冷静に自分と周りを見つめて、反省するところは反省して腹立てるところはちゃんと腹立てて、そして、めっちゃ嫌なことしてきた人の行く末、一回見てみたらいいんじゃないかしら。
カワイソーなかんじになってるのがほとんどだと思う。一見ではそれがわからないときもあるけれども。

なんかそんなことを、ふと思ったのでありましたよ。