とりとめもない話

アップルジュース かごの中 ゆれる

私には、儚さとか、脆さが、ない。

ヘラヘラしていて、不器量で、ほとんど何も考えていなくて、なんとなく図太そうな感じ。それがセルフイメージでもあるし、周りから見てもそうだとおもう。

けれども、私は小さい頃からずっと、心のどこかがひっそりとさびしかった。

私が学校でぶっ倒れても、両親ともに、来なかった。
友達が家に連れて帰してくれて、一人で寝た。嘔吐が止まらないので、深夜、日付が変わった頃に、しょうがなく母が病院に連れて行ってくれて、そのあと父から怒鳴る形で病院代を請求された。

もっと、無償っぽさ、ほしかった。
条件付きじゃない、執着でも所有欲でもない、ただ在ることに対する愛情がほしかった。
ひまわりみたいに、なにも疑わずに命を全力でうたうかのように咲いていたかった。

でも、もっとつらい境遇の人がたくさんいるのをネットでよく見ていたので、さびしいなどとは誰にも言えなかった。

私のような醜い太った道化でも、さびしかったり、悲しかったり、消え入るような気持ちになったり、何度もした。
したけれども、みっともないような思いがして、綴るのは控えた。

私は、つくる歌の中に「あの子」という儚い女の子を見出すようになった。
傷だらけの左腕をろくに隠しもしないで、真っ黒い髪は長くて、「僕」にもらった赤いリボンを着けている。

腫れぼったい一重まぶたに、黒い瞳。
ひまわりが好きで、クレヨンで、何枚も何枚もひまわりを描いて、捨てる。

そして、今はいるんだかいないんだか、それすらわからない。

少なくとも「あの子」は、私とは、似ても似つかない。
もっとビジュアル的な、破滅的美しさがあるし、私よりもずっとずっと現実に疎い。
私よりも思い切りよく、世界を蹴っ飛ばして、屋上から飛び出して、机といすごと、大量のぬいぐるみとひまわりの造花の中に落ちていく。そんな子。

私は、そんなことはしない。似合わないとわかっているので。
でも、「あの子」には、私がどうしたかったのか、本当はどういう気持だったのか、そのあたりが反映されているような気はする。

一方で、「あの子」と対峙する「僕」にも、私の感情が反映されているように思う。
なんにも構わずに狂い子ぶる儚い「あの子」を、「僕」はずっと見つめてきた。
その純も、くだらないたくらみも、諦めも、見抜いた上でずっと見つめてきた。

私が作ってきた歌には、やりたかったこと、できなかったこと、してもらいたかったこと、本当はそうでありたかった姿、ぜんぶ入ってる。

さびしくて、つらくて、むなしい自己を、脇目もふらずに体いっぱい表現して恥じないいびつな女の子「あの子」。
それをただ見つめて、読み取って、見抜いて、ただそうであるんだなと認識するだけの「僕」。

ニコニコしかできないから、誰も助けてくれないって、わかっていたので。
自分でカウンセリングするしかなかったから。
それはそれでさびしいね。

今は安定してますけどね。
どことなく綱渡りなのは、そういう、土台の部分なんでしょうね。

かわいい「あの子」と、あの子にぜったいついていてあげないといけない「僕」は、私のなかにずっと居続けるんでしょうね。

それって健康なのかな。わかんないですけど。

なにこの記事ー。

ばいちゃ。