遊離する

私は、これまで生きてきた中で、さまざまな制約、先入観、決まりごと、そうしたものを、時間をかけて何重にも塗りかためてきた。

それらは、私の社会的な立ち位置を確立するのに、とても役立った。
私は、昔よりもマシな人間になったと思うし、昔より人にも自分にもやさしい行動がとれるようになった。

そして、どんどん凡庸になった。

音楽会。合奏のとき、誰が何のパートをやるのか、話し合い。

私は、木琴をやりたかった。木琴は弾いたことなかったけれども、やってみたかった。ほんとうは。
あの大きな木琴を、みんなより前のところで弾いてみせて、意外とじょうずに弾けて、こりゃあ大したものだ、と言われてみたり。
なんて夢想していた。

けれども、手を挙げる勇気がなかった。

誰かが推薦してくれないだろうか。
「仕方なく私がやることになった」
そんな経緯が転がり込んでこないだろうか。
そう思って、待っていた。

そんなはずもなく、私は毎年、鍵盤ハーモニカかリコーダー。
すなわち、「手を挙げなかったその他大勢」。

手を挙げず、やる気を見せず、おとなしく。
そうしないと、結局、最終的には怒られる。
私はそれを知っていた。

私があふれる意欲のままに動くことは、イコール周りを振り回すことだ。
それを強烈な痛みを以て知る機会には、それはもう、いやというほど恵まれた。

若いときは、おとなしくしていればよいと知っていながらも意欲を抑えきれずに、よく泣いたり怒ったりした。
誰も私を選んでくれないことに、憤りがあった。諦めもあった。
恥を忍んで言えば、周りからの評価が自己評価に対して低いような、そんな印象を心のどこかで持っていたと思う。
それについて、「周りみんなが私にいじわるをしているのではないか」と、強い疑心暗鬼に陥った時期もあった。

私が、勇気を出して思い切って手を伸ばしてみなかったから、誰も私を選びようがなかっただけなのに。

誰も私を見つけられないだけだった。
私が自分から何も言わないから。

いじわるなんて、誰もしていなかった。

私はいま、自分で塗りかためた色々な先入観を一つずつ剥いでいっているところで。
ひとつ脱ぎ捨てるたびに、やれることが広がるとともに、自分の責任が増していくのを非常に強く感じる。
寝心地のよい布団のような、悪い気はしないずっしりとした重圧がある。

私は、ネット上であれば自分から人に声をかけることができるようになった。
すこしだけ、臆病な感情は残っているけれども、以前よりずっと容易い。
誰かに話しかける、というのは、「私からやりとりを発生させることは、誰かの迷惑になる可能性がある」と考えて強く制限してきた事柄である。

けれども、少し気付いた。
私が少し自分勝手になるたびに、好きなみんながうれしそうにしてくれる。

私は正しくない存在だけれども、その何もかも・100%が間違っているわけでもない、と、公言するには勇気がいるけれども、たぶんそうなのだと思う。
私は、自分が全て悪いことにして予防線を張ることをしないで済むだけの余裕を今は持っているから、もしかしたらいるかもしれない「私に似た悩みを持つ人」のために、少しだけ、調子に乗ったさまを恥ずかしげもなく見せようと思う。

今の私なら、「私、木琴がやりたい」と手を挙げられたかもしれない。
でも、もう当時に戻ることは出来ない。

だから代わりに、今、本当は木琴がやりたいのに手を挙げられない人に、「あなた、木琴はどうですか」と声をかける役割を担いたい。
もちろん全員は見つけられない。私はただでさえ、目が悪いから。

でも、見える範囲でなら。

それがエゴイズムであることは認識しているけれど、世界は、0か100かじゃないから、50しかできなくても、それで残りの50から嫌われても、私はやる。

そんなことを、思っている。