愛したいよね

きょうは、adobeのものづくり発信サイト「behance」に登録してみました。
よかったら、見に来てね。

https://www.behance.net/kinoco_factory

最近は、わりと断片的な考え事を、ぽんぽんぽんと点を描くようにしていることが多いです。
長文でガーッと書く感じではない。
Twitter向きだけど、もうちょっとこう、反射的に書かないで個人的な範疇におさめたいような考え事。

ことばというか、文章って、表現手法としてはどちらかというと強烈で。
そこに明確な「正解の解釈」が存在する、という感じがするんですよね。

「読んだ人に、このような内容かつこういったニュアンスで伝わったらOK」という正解があって、それを伝わりやすく、齟齬なきように、そしてなるべくそれまでの自分と矛盾しないように書いて伝えたいというところがあるじゃないですか。

けれども、自分の思っていることが伝わるのが嬉しいからと言って何でもかんでも言葉で表しすぎると、自分自身が自分で書いた言葉に引っ張られて操られていくというか、自身の発言に矛盾なきよう、それに従おうとしてしまっているような感覚が少しあるんです。

なにしろ、言葉は、強いですから。

たとえば、「ADHDであると診断された自分は、ADHDという言葉につられて『ADHDっぽい感じがする自分』に寄せていってはいないか? ADHDっぽく振る舞わなくては、その診断が嘘のようになってしまうと無意識に特徴をわざと踏襲して挙動してはおるまいか?」みたいな自問自答は、やっぱり尽きません。

私は、ADHDである必要はなく、私であればよいのですが。
どうしても、言葉に引っ張られがちになってしまいます。
現実問題、社会保障とかもいろいろ関わってきますからね。

おもてに出てくるものは必ず矛盾するもので、すこしは例外的であってしかるべきで、それは恥ずべきことではないというのはやっぱり心に刻んでおきたいですよ。
「そもそもこの世の全員が例外である、私も例外である」っていうことも。

文章の話に戻りますけど、私はあくまでも日本語をしゃべっていて、決して「私にしかわからない唯一の言語」をしゃべってるわけではない以上、それは誰かに教えてもらった、社会で生きていくための方策のひとつにしかすぎない。

「私だけにしか理解できない言語」は、私以外の誰にも正しく伝わらない。
でも、その「私だけにしか理解できない言語」はたぶん、存在すると思いますよね。やっぱり。
私が特別なのではなくて、誰にでも本当はあるんじゃないかしら。
なんかこう、共通言語にすることは決して出来ない、その人だけの言語みたいなやつ。

それが、絵とか音楽とか、文学とか、スポーツとか、病気とか障害とか、人それぞれのいろんなかたちで発露されることは、よいことも悪いこともあると思う。

でも、それがなるべくよいことであるように願いたいし、そうした「その人だけの言語」みたいなものを、こうかな、ああかなと想像しながら、愛したいよねー。

つくって、それを共有するのって、たのしいですよね。
なんだか、人と一瞬だけ繋がれたような気持ちになる。

いかに自分のままでいられるか、私のバランス感覚がためされる。

乞うご期待。