「語彙力」と「知ってる言葉の量」は、違うものではないかと思う話

また何も調べずに勘でもの言ってるので、間違っているかもしれないし、くっそ当たり前の話をしているかもしれないんですけれどね。

私は、「語彙力」とは「言葉の知識量」だけで語れるものではないと感じるのです。
それよりもむしろ、「知識量に関わらず、知っている言葉と知っている言葉をつなぐネットワーク網が、どれだけ豊かであるか」が重要だと思っています。

たとえば「A」という事象があるとき、それをひとことで表現する「A」という言葉を知っているだけでは、語彙力が豊かだとは言えません。
事象「A」を「A」としか表現できないのでは、「A」という言葉を知らない人には何も伝わりませんよね。
その場合、ちょっと手心を加えまして、事象「A」を「A」という言葉を使わずに表現する必要があります。

それをするには、頭の中にある言葉たちが、張り巡らされたクモの巣のように縦横無尽に繋がり合っている必要があるのです。
頭の中から「A」という言葉を引っ張り出すと、いっしょに、別の言葉での説明や似たような言葉やちょうどよい比喩などが、ぞぞろぞぞろとついてくるようなイメージです。

このネットワークの密度をこそ「語彙力」と呼ぶのではないでしょうか。

単語をたくさん知っているのがよい、というわけではないと思うのです。
もちろん、たくさん知っているに越したことはありません。知らないよりは知っている方が、何かと不便しないで済みますから、「そんなものは要らない」とは絶対に言いたくありません。
ただ、「『たくさん知ってる』だけでは、自慢にならない」。
これはたぶん、ほんとうのことだと思います。

私は子供の頃、国語辞典を読むのが好きで、自分でもまねをしてうすっぺらい辞典のようなものを作って遊んでいました。
何しろ、天才児でもなんでもないただの子供。知っている言葉の量など両手ですくえば一度ですくいきれるような、貧弱なものでした。

けれども、だからこそ「ある言葉を、知っているだけの少ない言葉たちをうまく融通して別の言葉で言い換えたり説明する」というのがとてもチャレンジングでおもしろく、たいへん熱中したのをよく覚えています。

なにかを端的に一言であらわす言葉を知らなかったとしても、それを別の言葉で説明できるなら、それでよいのです。
なぜなら、使用する言葉はつたなくとも、説明ができるならば「より端的な言い方を調べる」ことが可能になるからです。今はグーグル先生が多くの人の目の前にいる時代ですからね。

言葉をどれだけ知っていたって、「それが何なのか」が説明できないと、調べることも、誰かに尋ねることもできません。
ですから、この「言葉と言葉をつなぐ頭の中のネットワーク」を強化することは、言葉の量をたくさん覚えることよりも重要だと私は考えています。

じゃあ何をしたらそこが強化されるのか、と言われましても私はこれを熱心に研究しているわけじゃないのでわからないのですが、辞書づくりは、楽しいですよ。

ああ、子供の時、「造語辞典」みたいなのも作りましたね。
「造語なのになんとなく意味がわかってしまう言葉」みたいなのを考えるのにハマっていた時期があって、そうそう、つくりました、つくりました。大学ノートで。
それ、すごい楽しかったですよ。おすすめ。

総括しますとですね、「難しい言葉覚えるより先に、言い換えとか説明のトレーニングせえ」ですかね。

うわあ、すんごいえらそうですね。

せんでいいですよ。
わしみたいなもんの言うことは、ろくなもんじゃないですから。

意味わからんようになったら「イエエエエエエエエエエエエエイ」言うとけばええねん。

にんげんだもの。

まったねー

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