世間一般・あたりまえを目指さない暮らしの話

「世間一般的な家庭」というと、「男性が働いていて、女性が専業または兼業で主に家事をして、子供が1〜4人ほどいて」というのがまだまだ一般的なのかなあと私は感じます。

そういう意味では、私の家は一般的ではないと思います。
私(妻)は5時間のパートタイムではたらき、夫は専業主夫で、子供はおらず、ともに障害年金受給者です。

あしたから、主人がA型作業所で短時間の就労を始めます。一週間はお試し期間ですが。
このまま継続的な就労が決まれば、夫婦ともに短時間勤務、家事は均等割、というスタイルになります。

車や持ち家などを買うような生活はできませんが、なにせ子供が居ないと出ていくお金が格段に少ないですから、平均を下回る少ない収入でもカッツカツの貧乏という感覚はありません。
我々の、ちょっとラーメン食べに行っただけで「ひゃっほーとんでもない贅沢をしてやったぜ!」と思う性質が功を奏しました。
さやさやと小川のように静かに流れる毎日に、そこそこの満足感を得ることができています。

たぶん、この生活を「それはよいことだ」と思ってくださる方もおられるであろうとともに、なんとなく「元気なのに年金もらってずるい」と感じる方もおられれば、「そんなでは駄目だ、将来どうなるかわからないのに、ちゃんとするべきだ」と思う方もおられようかと思います。

私自身、「障害年金という他力を頼っているのに、のうのうと幸せに暮らすのはどうなのか。元気なら自力に戻すべきではないのか」と、自問自答した時期がありました。

けれども、自力で生きていたときの「死にたくなるほど苦しい、やりたいことも何も出来ずにただ毎日を耐え忍んで生きている状態」に戻すというのは、憲法の25条に載っている「健康で文化的な最低限度の生活」ではないと考えました。

よって私は、「もらえるものをもらって、その範囲内で、めいっぱい人生を謳歌する」という選択肢をとりました。
また、「これは特別に与えられた権利(すなわち、ずるい特権)ではなく、苦しい人がみな受けられるものであるべきだ」という考えのもと、障害年金受給のことを隠さないことにしています。

社会福祉を享受しているからといって、肩をすくめ背を丸めた姿で隠し事をしてこそこそと生きる必要はないはずだと、そのように自分を納得させました。
これは、たとえば生活保護などについても同じく言えることだと思います。

また私は、今でも「自分たちだけの力で生計を立てること」を目指しています。
ただし、合わない就労で死にたくなるような生き方はもう選びません。元の木阿弥になってしまいますから。

そうではなくて、
「私が私のままで、私ができるタイプの頑張りをしたうえで、壊れない程度の無理だけで、口に糊するレベルのお金を稼ぐ」
これが可能となる方策を、日々、模索しています。

たぶん私の場合、「大好きな絵を描いて売る」「依頼をもらって描く」だけだと、今のところ現実的に考えて厳しいと感じています。
技術的な部分が足りていないのと、根本的にモチベーションが「趣味」の性質をしているので、これをガッツリ仕事にしてしまうとストレスが大きいような気がしています。

そして、私の「好きではないけど、上手い」は、対面接客や傾聴だと思います。
それも、自分からグイグイ営業に行くスタンスではなく、来客を待つスタイルが合っていると思います。
ただ、これはあまり千客万来状態にすると変なやつも来て腹が立つことになってしまうので、まともな人だけに来客してもらえるような工夫をして実行するのがよいと考えています。

さらに私は、もしも今後自分の挑戦が実行に移され、そして軌道に乗ったとしても、碇となり最低限の収入となる「短時間の被雇用就労」を続けるべきだとも思っています。
「すべてを捨てて挑む覚悟でなければ!」という考え方も、エンジンのふかし方のひとつとして非常に理解できるのですが、私の場合には「自分の挑戦が駄目になっても絶体絶命ではない」というスタイルをとっておくことは、精神安定の部分を考えると非常に重要なのです。

非常に自分に甘い考えだとお思いの方もおられるかもしれませんが、高パフォーマンスを叩き出すためには、あたまが健康でないといけません。
私は、やりたくないことを無理やりやると、本当に知恵熱を出す人間なのです。熱は、出そうと思って出せるものではないでしょう。
そこで、自分にある程度甘く対応し、シビアにできるところだけをシビアにすることが、安定して生活していくために必須なのです。

幸い、時代の変化の方向性は私のような人間に味方しているように感じます。
このまま行ってもらえれば、あとに続く若い人たちは、もっともっと色んな生き方を謳歌できるんじゃないだろうかという感覚があります。

これは私個人の考えなのですが、この現代らしい多様性の感覚は今後もしっかりと育てつつ、同時に「日本の田舎の村社会」のいやらしいところは廃してよいところだけを残した「古き良き日本」みたいなもののエッセンスもほどよく混ぜていくと、いいんじゃないかなって思っているんです。

私、日本の謙遜文化とか、なんとなく言わなくても察するみたいなのとか、決して嫌いではないんですよね。
それが中途半端に外国からの概念とまざって、悪いように育ってしまい、「空気読めよ」みたいな押しつけが横行してしまった部分があるけれども、「縁側で無言でお茶飲みながら、ただ空や畑を眺める」みたいな日本っぽさを、もっとよいかたちで残すこともできると思うんです。

近所の誰それの噂話してゲラゲラ嗤うとか、聞かれたくないことまで根掘り葉掘り聞いてくるみたいなのは大大大大ッ嫌いなんですけど、「誰それを最近見かけない、大丈夫かしら、ちょっと訪ねてみるか?」は、けっこういい文化だと思うんです。

でね、こう、それが好ましい人と、そんなのされたくないと思う人がいるんだけれども、過去の日本では、問答無用で置かれた場所で咲きなさい状態だったじゃないですか。
でも今なら、「そういうふうに気にかけてもらいたい人用の村」「一切干渉されたくない人用の村」で分かれること、ある程度、できると思うんですよ。

そういう、いろんないろんなちっちゃい村がいっぱい出来て、誰でもどこでも選ぶことができるっていうのが、出来たらいいですよねぇ。
まだね、厳しいと思う。実現には。20年後くらいにはそういう感じになってたらいいなと思いますけど。

なんだか、いろいろ話が飛んで、何の話していたかわかんなくなってしまいました。

昨日、35歳になりました。
お祝いしてくださった皆さん、ありがとうございます。私は果報者です。

今後も、甘ったれのままでガシガシやります。

ヨロピコ。