表題の件につき、創作において「反応がないとさびしい」という感情と「反応ほしさに創作してるわけじゃない」という思考を同時に持つことについて、それをまるで卑しい矛盾であるかのようにつつくことで「我こそは真理を知る者」と思いこんで自我を保っている恥ずかしい成人が散見されますので、これを明確に否定しておきたいと思います。
「反応があるとうれしい」「反応がないとさびしい」というのは、「反応の有無による感情の動き」すなわち「結果」であって、「目的」とイコールにはなりません。
”「反応をもらう」が目的ではないならば、反応の有無に対してリアクションしないはずだ”など、そのようなことはいっさいありません。
反応に対してリアクションすることを、みっともないことと思って必死でがまんする必要は、ありません。
がんばって作ったものに対して反応がもらえたら嬉しいのは、当然のことです。
がんばって作ったのに思ったほど反応がないとさびしいのも、当然のことです。
誰かに喜んでもらえるかもしれないと思ったのに響かなかったなあ。
それを残念に感じることは、非常に健全なことだと思います。
それで追い詰められるならまずいことですが、浮かんだ感情をなかったことにするのはもっとよくないことです。
「その感情の動きがあるということは、創作の目的を『反応の有無』と置いているのだ」ということには、決して、なりません。
「結果」「目的」これは別々のものです。
「目的は、特にこれといって無い」
これも、往々にしてある話だと思います。
さて、本題に入りましょうか。
反応、どちらかというと、わりとほしい。
「特に感想ないけどお愛想いいね」みたいなのはいらないんだけれども、なんかあればぜひ、ほしい。
「他にアピールできるような、もらった数字が見えるタイプの反応」じゃなくていい。私にしかわからないやつでいい。数字として残らないやつでいい。誰が評価してくれたのかというのもわからなくていい。
手軽で気軽なやつでいい。
ぽちっとな、でいい。
ただただ、「この世のどこかにいる誰かがこれを見て『おっ』と思ってくれたんだなあ」という、その人間の温度だけが残ればいい。
愛されるのは、うれしいんですよ!!!!!!!!!!!!!!!
誰にほめられなくたって創作をやめることはないけれども、それとこれとは別なんですよ、ほめられるのはうれしいんですよ!!!!!!!!!!!!
このぐらいアホでいいんですよ。
みんな品行方正に真摯にストイックにやろうとしすぎ。なんかしんどくないですか。そんな窮屈なもんじゃないでしょ創作って。
もっともっとふところが広いんですよ、ものづくりっていうのは。
ラクにいきましょうよ、締めるとこだけキュッと締めて。
つらすぎて死んじゃったらなんも作れないですよ。
反応って、欲しがらないとなかなかもらいづらいんですよ。
ほしがっても恥ずかしくない!!!!!!
と思いますよ私は。
ええ。
クソみたいなオッサンが若モン貶めようと色々言ったりしますが、間に受けるもんじゃねえよあんなの。
まじで。
塩撒いとけ塩!
と思いました。