うさんくさいのはいやなの

なんか、人助けってね、うさんくさい感じがするんですよね。

お金配りするあのひととか、あんま好きじゃないんですよ。
「そんなうまい話が、あるんです」という形にしてしまうと、自分は人助けできて気持ちよかろうけれども、実際その形を真似た詐欺まがいの情報収集屋とか出てきているわけで。
もちろんそれは詐欺野郎が悪い。ひとりでも助けようとしたそのひとが悪いわけではない。悪ではない、けれども、私は「それは悪手だ」と言いたい。
実際にどうかは、頭の悪い私にはわからない。
でも、少なくとも改善すべき点がある。と私は思う。

でも、私も、「困っている人が助かったらいいのに」と思っている人間で。
そして、口だけなのはいやだと思う人間で。

私は「うさんくさくてもいいんだ」じゃなくて、「うさんくさくなくて、これを誰かに真似ッこされても誰にも害がなくて、手放しに信じてもらって大丈夫なやり方」を考えたい。

で、私が考えたのは、「あくまでも私のついでっていう形ですけど、それでもよければ」というスタイル。自転車行商とかがそうです。
あくまでも「私自身が前に出てやりたいこと」を大前提として、本当は一歩踏み出したいんじゃないかと見える人に「もしよかったら一緒にやろうよ! やってみてダメっぽかったら頓挫しても私はどうせやるから穴開かないんで、大丈夫ですよ! 場所あいてるんで!」という、やりかた。

人によっては、「そんな無責任なことでは、業界全体が甘ったれてしまうからダメだ」と言う人もいるかも知れません。

でもね、私程度の矮小な存在に揺るがされるような弱い業界なのだとしたらね、最初から、守らなきゃいけないほどの価値なんてなかったんじゃないの。

そんな弱っちいものだと思ってるの? そのご自慢の「業界」とやらを。

って私だったら言います。

私がやりたいのは、一段上に立つ「助ける」「教える」「あげる」というスタンスではなくて、あくまでも並列、となりに立って「いっしょにやりましょう」「せっかくだからついでにどうですか」なんです。

「それしかできない」とも言い換えられます。学がありませんから。

それでいて、かつ、やっていることがどう考えても対等ではなく、あきらかに施しであるのに「こちらが、させていただいたのです」というような極端なへりくだり方も、したいけどしたくない。
それは私は、少し不自然だと感じる。
それはね、正直に「してあげた」と言わなければならないと、これは間違っているかもしれないけれども、思うんです。

私は独善的な本心を忘れたくない。
「人に何かしてあげて気持ちよくなっている自分」を常に自覚しなければいけない。
私はよく、「あくまでもWin-Winなんですよ、これは必ずしも施しではないんですよ」と言い訳をします。言い訳なんです。
いいこと風なことをしている自分に酔って気持ちよくなっている部分が全く無いかと問われれば、そんなことはないと思う。
そういう自分に対してテンション上がってる部分は、あると思う。
ただ周りが優しいだけだと思う。そこを突っ込まれないのは。

それでも、私の独善によって助かる人がいるのなら、私は「ついでですけど、どうですか」と言います。
その中で私は、「悪い人が詐欺に使えちゃうような方法」をできるだけとりたくない。騙すような、操るような手法をつかって人を助けることをしたくない。
たとえば「お金が手に入ります」みたいなやり方ね。

だから、「あくまでも私がやるんですけどね、その横で、どうですか」というやり方をとる。今はですね。

私は、「親切」という概念自体がうさんくさいものとなってしまうのは、いやなんです。
だから、「このやり方では人を騙しようがない、詐欺には使えない」という方法をとって、あくまでもついでにはなっちゃいますけど、困ってる人といっしょに楽しいことやりたいんです。

そして私は、それに乗ってくれた人が楽しそうになさってるのをみて、人助けしてるような気分になって、調子に乗って気持ちよくなる。
実に気持ち悪いなあ、私という人間は。

でも、しょうがないじゃない。
それが楽しいんですよ。みんな楽しそうなのが楽しいんです私は。いい人ぶるわけじゃない。みんながつらそうなのは、私は、こわいんです。なんだかピリピリしてて、笑っちゃいけないみたいで。

というわけですから、今後とも、ぶっとばしまっせー。

いえーい。

よっぱろうた。

ねよ。