わたしがわたしをえがくとき

私は、「まったく人目を気にしない」ということができるほどには、心が強くありません。
しかしながら、すべての行動を人目ありきで考えられるほど、器用でもありません。

ことしの3月、人生ではじめての展示をやりました。
11月は、また別の展示を現在進行中なのと、即売会に参加しました。
よくわからないことが多くて、とりあえず勢いで駆け抜けるような感じでした。

その中で、作品そのものやその発表の場を「最高のものにする」ことと、「かっこをつけて小綺麗にする」ことの違いについて、いろいろと考えました。

私は、何につけても、「見栄えよく、きれいに、スタイリッシュに」ということができません。
いや、「できない」というと少し語弊があるかもしれません。
全くできないわけではなく、本などを読んでそのとおりにしたり、お金をかけて人に頼めばそれらしく出来ることを知っているのですが、どうにもそれではだめなのです。

間の抜けた、かっこ悪くてずっこけるような、いかにも素人の自家製らしいほころびのひとつやふたつがないと、どうにもこうにも居心地が悪くて、借りてきた猫のようになってしまって、自分という感じがしなくて、なんともいけないのです。

「人に見てもらう以上、完成度(あるいはクオリティ)を最大にして臨むのが誠意である」という意見について、私は同意しますし、理解もします。

けれども、その意見を自分自身が踏襲するかというと、「YES」とも「NO」とも言えません。
その答えは、ある側面ではYESであり、またある側面ではNOです。

「私のまるはだかの考えや、私に見えている景色を、ほかのすべての影響を排除して徹底的に踏襲しつくすこと」。

私にとっては、上記のことがらをどれほどまでに追求できるかが作品のクオリティであり、それを極限まで研ぎ澄ましていくことが、見ていただく方への誠意であります。

「一般的に言われるうつくしさを踏襲しているかどうか」をクオリティと呼び、それを追求することを誠意と呼ぶのであれば、私は、クオリティが非常に低いし誠意もないに等しいでしょう。

私は人並みに人目を気にするタイプですので、これを徹底することには怖さがあります。
「まわりにどう思われるだろうか」、「これをやったら見くびられるのではないか」、「無知を晒すことは恥ではないだろうか」、「私の分際で、調子に乗りすぎているのではないか」「実際よりも下等に見られないように振る舞う必要がありはしないか」

こうした考えがいっさいよぎらないわけでは、ありません。

しかしながら、どうでしょうか。
一般的に言われるうつくしさをどれほどまでに追求したところで、そこに「私」が存在していないのなら、私がそれをやる意味は、果たしてあるのでしょうか。

そんなものは、どれほど見栄え良く、スタイリッシュに仕上がれども、「私」の作品ではない。
この時代でありますから、そのようなものは、AIにまかせておれば良い。

私はそう思います。

今も、ひとつ、迷いがあります。
私は、うまれつきの発達障害も手伝ってか、「ほんの少々ずれている」タイプでした。
大きくずれてはいませんでした、でも、いまひとつ、ピタッとみんなと同じにはまれないタイプでした。

私は、その「微妙なズレ」の言い訳として、人と合わせる努力をしたくないがために「私のままで」と言っているのではないか。
そういった自問自答は、日々、絶えません。

でも、そんな思いのよぎる頭をぶるぶると振るって、私は今日も、私を研ぎ澄まします。
なぜならば、きっとそのほうが、今よりもよい世界になっていくと思うからです。

「微妙なズレ」をそのまま受け入れる、その素地をつくることによって、多くの人が生きやすくなっていくと私は信じます。
断定はできません。先のこと、人のことは、わかりません。
でも、信じて、それにならって行動していきたいと思っています。

言い出しっぺが口だけで何もしないのでは、話になりません。
ですから、私は、低廉なままで、でしゃばります。

私は、徹底的に「私」をお見せします。
その行為のさいに、ふんわりとそれらしく見えるベールやスタイルのよく見えるハイ・ヒールをいっさいまとわないことが、私の誠意です。
「それなのに魅力的だ」と思ってもらえたら、それが、私の芸術です。

いまさら、ナメられることなんか、こわくないです。
買いかぶられることのほうが怖い。

そんなことを考えました。

鳥とほうれん草のポン酢炒めを作りながら考えました。

日々のめしづくりは、私の担当なのです。

鳥とほうれん草のポン酢炒めは、うまいです。

おなかいっぱいはしあわせです。

バ〜イ。