ナラティブセラピーとオープンダイアログについて、なんとなく共感できる考え方である気がするがよくわからん話

こないだ、病院の先生に、論文のAメロ部分だけみたいなやつもらったんです。
「ナラティブセラピー」についてのやつを。

きのこはたいそう頭がわるいので、書いてあることがさっぱりわからなかったのです。

余談になりますけれども、私はたいそう頭がわるいですがひとつだけかしこいところがあって、それは「自分が対象を理解していないとき、『私は理解していない』と自分で認識できる」ところです。
私がえらいのはこの点ただひとつのみです。以上、余談でございました。

また、私が毎月参加しているかかりつけ医院でのADHDミーティングにおいて、ちょくちょく「オープンダイアログ」という言葉が聞かれることが増えました。

これもまったく知らないことばでしたので、ググってみたのですが、まあわからないですね。
ページによって、言ってることが微妙に違ったりしますからね。
総合的に言うと、なんでしょうね、「おたがい、ぜんぶ腹割って話しましょうや」みたいなことですか??

とりあえず両者とも、ものすごく噛み砕いて言うと「対等な立場で、ちゃんと話してちゃんと聞く」みたいなことを、いろいろな技法を用いて行うものなのかしら? と想像しました。

わからないなりに、「こまかいことはよくわからないけれども、かろうじて掴んだざっくりした方向性については、なんとなく共感できそうな気がする」と思っています。

ここからは、よくわかっていないで思ったことを書くので、ナラティブセラピーとかオープンダイアログとかの難しいことばは忘れて読んでいただきたいんですけども。

ADHDミーティングで、「それぞれテーマを決めて何かしら書いてみよう」という話になったので、私も書いてみたところ、ほどよく頭のわるい良い出来になったので、みてみて。


テーマ「自己肯定感」

 現在の私の自己肯定感はエグい。その高さたるや、並大抵のものではない。

 たとえば、少々自分のことを悪く言われたところでなんとも思わない。それどころか、悪く言われていても、そもそも気づかない。特に嫌味というものは、私にはいっさい通用しない。嫌味がわかるほどかしこくないのだ。

 それから、やりたいと思ったことは誰が止めても遂行し、そして実際に6〜70%くらいの確率で成功する。というか失敗してることに気づかない。「自分は失敗をした」という思考に至らない。成功するか飽きてどうでもよくなるか、どちらかに至るまでは、やるのだ。「失敗で終了」は、無い。やめるときは、飽きたときである。

 これらが、なぜ可能なのか。
 それは、「私はアホだから」である。

 私はうつ病を患っていた。過去形である。たぶん。
 今はうつの影はすっかり消え失せ、いい感じにアホである。アホは最高だ。何をやってもいいのだ。どんなことでも出来る人間は天才かアホだけである。

 うつ状態が強かった時、私は、アホではなかった。アホでいることは到底出来なかった。この社会はアホをゆるさない。私はもともとアホなのに、アホを禁じられたのだ。
 私はアホでいられなくなった。アホでいてはいけなくなってしまった。「天才」もしくは「常人」どちらかにならなくてはいけなかった。しかし、これは無理な話であった。私は、アホだからである。

 アホアホ言う前に、ここでいう「アホ」を定義しなくてはならない。そろそろ皆、「アホ」がゲシュタルト崩壊してアホをアホととして見られなくなってきた頃だろう。

 ここで言う「アホ」は、決して「愚鈍」「低廉」を意味しない。
 アホとは、「私という人間が、ありのままの自分自身を肯定し、いったんふりだしに戻り、再度自分自身を育て上げる」を行った結果、己のキャラクターに最もしっくりきた言葉である。

 ここを掘り下げてみたいと思う。

 幼少より、父との関係性に難があった。
 今なら理解できるけれども、父もまた、アホであった。定時制高校を「好きな子にフラれた」という理由で中退したり、妻子ある状態で勤めた会社を社長と喧嘩して辞めてきて急に居酒屋を始めたり、私の兄貴、つまり自分の息子の初任給でプレゼントされた酒を自分の店で客に売った挙げ句、いくらになったかを嬉しそうに兄に報告するような、枚挙には暇がないがとにかくそういった微妙にアホで失礼な男であった。

 私は事あるごとに苦しんだし、反発したし、愛娘の生育に頓珍漢な執着を見せ強い制限を設ける父とはとにかくひどく衝突した。

 毎夜毎夜、階下でいらだちを母にぶつけて怒鳴り散らす父親の声が聞こえるたび、ふるえていたのであった。
 家に電話がかかってくると必ず2時間超の説教タイムだったから、今でも電話が苦手である。

 ただし父の名誉のために申し添えておくと、これらの行動には、いっさい悪気はない。この父親は決して悪人ではなく、ただただ、アホで、甘ったれなのである。
 しかしながら、幼かった私がそれを理解できず、乗りこなすことも出来ずに真正面から受け止めてしまい苦しんだこともまた、決して悪ではない。

 これを「改善点は互いにあり、双方とも、悪ではない」と考えられるようになるまでにはそれなりの(十数年という単位の)時間がかかっている。

 これらの経験は、私を「本来の私とは違う人間」に育て上げるに十分なものであった。

 私はいつも、自責と他責の間でぐらぐら揺れていて、不安定だった。

 「どちらかが正解であり、どちらかが不正解である」という強い思い込みがあった。
 だから、自分にひとつでもほころびがあるならば「不正解側」は自分になってしまう。私はこれをたいへん恐れた。そうなった瞬間、鬼の首を取ったようなとんでもなくひどい攻撃を受けてしまうような気がしていた。

 そうして成人として出来上がった「私」は、生来の私よりも品行方正で四角四面、All or nothingの思考が強く、正義感に溢れ、「こうでなくてはならない」「こうあるべき」「正義VS悪」とばかり考えていた。

 生来はテキトーでいい加減、どっちでもええがな思考、なるようにしかならないでしょう的な性格をしているはずの私に、この少しいびつに組み上がった「私」像はあまりにも窮屈すぎた。

 この強固な外殻が、内面との齟齬を起こしてうつ状態を招いているのではないかと思った。

 だので、やめた。

 私は徹底的に自分を甘やかしてみた。

 選択肢がふたつあって、「こうでなくてはならないはずだ」と思ったら、そっちではなく「よりラクなほう」を選んだ。

 何かに対して「こうあるべきじゃないのか」と思ったら、「でもこっちのほうが楽しくない?」と実際に口に出して言って、生来の自分が望むことを、なんでも叶えてあげた。

 楽しい方へ、ラクな方へ、テンション上がる方へ。全部、そういった怠惰な方向性へものごとを進めていった。最初は脳が拒否する感覚がすごかった。少しずつ慣らした。

 すると、不思議なことに、あれだけ恐れていたことは何も起きなかった。

 私は、何かが怖かったからあんなに角張った人間になっていったはずなのに、ちょっと何かを間違っても何もこわいことは起きない。それどころか、楽しい事ばっかりだった。
 私は、何を恐れていたんだろう。

 もちろん、そんな1日でころっとすべてが治ったわけではなくて、少しずつ少しずつ自分を育て直していった結果ではある。
 骨は折れたが、辛抱強く自分を育て直したことで、自分に対しても他者に対しても「許す」ということができるようになってきている。何かに対して「そんなのはおかしい!」と思っても、「まあ、そういう考えもあるやな。但しわしはそれ嫌いやけどな!」とすぐに切り替えられるようになってきた。

「自責、さもなくば他責」という、そのどちらかしかなかった私に、「寛容」の概念が生まれている実感がある。

 そして、どこに出しても恥ずかしい立派なアホに戻った私は、日々すきなことをして、ゆかいに過ごしている。

 さて、ここまで私が精神的に安定して自己肯定感が生まれてくるまでの歩みを書いてみたけれども、心穏やかに過ごすコツ・その方法論については、「人によって違う」としか言いようがないと思う。

 私の場合は「自分自身を育て直す(生来の自分に戻し、それから進むこと)」だったけれども、その方法論が必ずしも万人に対してよい影響を与えるとはどうも思えない。

 大切なのは、自分とよくよく対話することではないだろうか。誰かがこう言っていたから、と言ってそのとおりにしたって、自分に合うとは限らない。自分に合うやり方は、自分自身に聞くしかないのだ。

 その中で注意したいのは、「自分自身は、しばしばリアルなうそをつく」ということである。

 壊れてしまわないために自己防衛として自分にウソをつくことがある。そういう時の自分は、何かを怖がっているから、無理に本当のことを吐かせようとしないで、時間をかけて少しずつ恐怖をとっていくのがよいと思う。

 また、「自己肯定感がなくてはならない」「自信をもたなくてはいけない」というのもまた、「〜ねばならない」思考につながるため、注意が必要だと思う。

 別に、なくて大丈夫ならなくてもいいのだ。どっちでもいい。私のような、自己肯定感に満ち満ちた人間というのは、けっこうウザいのである。みんながみんなそんな感じになる必要もあるまい。

 ダイソーの店員のように、「そこに無いなら無いですねー」ぐらいのテキトーさでいいのだ。別に。死ぬわけじゃなし。

 とにかく手っ取り早く元気になりたい人は、晴れた日に散歩するといい。緑の多いところがいいね。エナジードリンクよりも酒よりも効く。

 また、「超巨大なハンバーグ」もしくは「超巨大なおにぎり」を作って食べるといい。これはかなりおすすめできる。「鍋いっぱいのカレー」でもいい。騙されたと思って一度やってみるべきだ。そしてあなたは気づくだろう、騙されたことに。

以上