思考が言葉になるのか、言葉で思考するのか

私はたまに、「文章が書けて、すごい」とほめてもらえる時があります。

自分では、私の文章は「書けている」のレベルに達していないと思うのですが、ほめられればありがたくそのまま受け取るわたくしですので、「そうか、私は文章が書けているように見えるのか」と真に受けることにしています。

なんべんか書いておりますけれども、私は考え事をこねくり回すのがたいへん好きで、暇さえあればなにかしら考えてはつじつま合わせごっこをして遊んでいます。

その中でふと思ったのですが、私は、あるいは人間というものは、「言語によって思考をしている」のでしょうか、それとも「思考を忠実に言語化している」のでしょうか。

私は基本的にアホでありますので、ほとんどのことがらを何も考えずに無意識に行い、うたがいもなくそのままスルーしてゆきます。
ですが、一度じっくりと、「私が、思い、考え、発するまで」を、紐解いてみたくなりました。

私の場合、まずは感情や直感の面で何かに「ん?」とひっかかり、「これについて、自分の中でつじつまの合う答えが欲しい」と思い、そこから思考フェーズに入っていくことが多いです。
その「考える」のフェーズで、私はやはり、主には「言語」を道具にして形を整えていっているような気がします。

もう少し深堀りしてみたいですね。
たとえば今書いている文章を、私はどのようにして構築しているのでしょう。自分でもよくわかっていないので、考えてみたいと思います。

私は、書きながら考えるタイプです。
今現在、この文章がどこに着地していくのか、自分でもわかっていません。
今まさに、考えを粘土のようにこねくり回しながら、形を作っていっています。

「言葉」は、さながら、粘土ヘラとでもいったところでしょうか。
いや、少し違うような気がします。
私は、ふわふわとした思考を次の段階へ進めていく手段として、「言語化」を選んでいるのではないかなと感じています。
粘土で例えるのであれば、乾かして固める作業そのもののように思います。

私の場合は、言語なくして思考をすることは出来ないと思います。
それは、ワーキングメモリがやや狭小なためかなと想像しますが、なにしろ情報をあまりたくさん頭の中に保持しておくことができないからです。
文章でも音声でも絵でも何でもいいのですが、思考が出てくるそばからなんらかの形に圧縮変換してアウトプットし、「外付けHDDに保存」をする必要があります。でないと、すぐに容量オーバーになってしまうのです。

「自分は文章が書けないんだ」と嘆かれる方がたまにおられますが、それは「頭の中に、言語化前の元データのままで情報を残しておけるキャパシティを持っている」ということであり、むしろ優れたことなのではないか、とも思います。

頭の中で考えて形にするということができないので、考える手段として言語化をしている、そのように感じられます。

そう考えると、やはり「思考」が先にあり、あとから「言語」がついてくるということなのでしょうか。

それにしては、おかしな点があります。
私は、けっして語彙力に長けておりません。
特に、難しい言葉に関しては、よく理解していないフシがあります。

そのわりには、比較的、思考を忠実に言語化できているように自分では思うのです。
あまり、言葉に不自由した経験がありません。うまく表現できなくて困ったことが少ないのです(会話においては日常茶飯事ですが、ここでは文章での経験にしぼります)。

まるで、私が認識している語彙に、思考のほうが柔軟に曲がって、言語に合わせてきているかのようです。

ためしに一度、仮定として「言語によって思考している」という体で話を進めていってみます。
私は比較的、「かんたんな語句によって思考を展開していく」というスタイルを好みます。
難しい熟語などを多用する方向性は、あまり志向しないほうです。

かんたんな語句というものは、たいへん融通がきくのです。
ちょっとした理屈の隙間、既成の熟語では伝えきれないニュアンスを、ほどよく自然に埋めてくれる、非常に重要な役割を果たします。

「言語によって思考が展開していく」と仮定した場合、知識に乏しい私がたどたどしいなりにも思考を展開していける理由が、ここに一つあるように思います。
私は、かんたんな言葉を用いた脳内会話によって、思考を展開させていっているのではないでしょうか。

で、最終的に今日の結論として、

「そら、両方とも、あるやろ」

に着地しました。

両方ともある、というのが、最もしっくりきます。
「思考と言語の間」ぐらいのときもある気がします。単語や擬音だけが点在している状態です。

思考が言葉になり、その言葉に足を掛けて、また思考する。

一人で会議をしてるんでしょうねえ。頭の中で。

会話は苦手なんですよね。
会話はね、相手さまが私のレベルの低さまで下りてきてくれるタイプのやさしい人じゃないと、なんかうまくキャッチボールできない。
自分のほうがレベル調整する、っていうことができないですね。

思考が、言葉以外のものとつながっている人もたくさんおられるのでしょうね。絵とか、音とか、数式とか。
そういう話も聞いてみたいですね。

きょうの考え事はここまでにします。
なぜなら、ばんめしつくらんといかんからです。
おなかがすきました。
ばいばーい。