という大仰なタイトルをつけてみたはいいものの、ノープランなのでどこに着地するかはわからないし、多分そんな大した論は書かないだろうと思いますから、好きなときに解散していいですよ。
私は、「創作するということは、自分自身を正確に彫り出して人様にお見せすることだ」論者なのですが、これは別の方向性でやっておられる方もたくさんいらっしゃると思われます。
どの考え方が正解というのではなく、「私はそれを選びました」という意味です。「私は個人的に、自分自身を切り出すスタイルを取っています。」ということです。
そんな前提を知っていただいたうえで。
「アーティストは一風変わっててナンボ」という世界で、私は、「なんちゅうことなく、頭一つ抜きん出ることもない、いたって平々凡々とした、つまらない人間」という間違いなく存在する自分自身の一部分について、隠すべきなのか、晒すべきなのか、いつも考えています。
いわゆる「普通の生活」、ここで意味するそれは「一般職にて、平均的な給与所得者として暮らす」ということですが、それだけを全うするには、私はいびつすぎてこわれてしまいます。
けれども、アーティストとして素晴らしいものを作ることだけで暮らせるほど、私は突飛でもなければド変人でもなく、また自分の考えとしては「これは常識的な振舞いではない」とわかっていながらあえて人を困惑させるのも好きではないし、自分の思いとまわりの都合を(ある程度ではありますが)天秤にかけて考えられる自分というのを、わざわざに捨てたくはないのです。
そういうときに、私は、「どっちつかずではいけないので、どちらかに寄せる」ではなく、「自分ぐらいのどっちつかずの人間が居られる場所を、新規で自分でつくる」ということを行います。
この場合で言えば、「常識・良識を捨てず、まわりにやさしいよい子のまんまで、かつ自分自身を探求しよい作品づくりに没頭することも大事にする」という、「常識・良識と、自己研鑽の両立」を目指そうと考えます。
「わざわざに変人ぶらないといけないような空気」みたいなものを、打破したいのです。
「アーティストはこうじゃないとね」というのを、すべて、取っ払いたい。
わざわざ気難しくなくてよい。だからといってお愛想できなきゃいけないわけでもない。器用でも不器用でもよい。健康でも不健康でもよい。
「すべては、どうでもよい。」
どちらかに全振りできず、「なんか微妙に、ちょっとだけズレてる」が私であって、微妙に常識的で微妙に変、このバランスは私固有のものだから、アーティストたるものどうこうとか気にしないで、そのバランスを大切にしないといけない。このように思っています。
そして、「自分自身のままでやる」というのは「努力を怠り、だらだらと過ごす」ことではないです。
ここを勘違いしてグダグダ言う人がたまにおられます。
「自分自身のままでやる」ためには、覚悟も必要、研鑽も必要。
進む先に整備された道はなく、ただただ野原が広がり、「どこに進むも自由」という事柄に対する責任は自分自身に重くのしかかります。
誰のせいでもなく、自分が責任を負うのです。
誰にだまされたとか、どの本に書いてあったとか、そんな言い訳できません。
そっちに進んだことで起きたことすべて、いいことも悪いことも、すべて自分でケツを拭くんです。
それが、ぶっとぶところまでぶっとぶことができなかった私のやり方です。
正確には、そうするしかないのかもしれません。
今すでにある枠の中っていう条件ですとね、私がうまくいく見込み、あんまりないんですよ。
私はね、何かと、出来ないことが多いから。
私だけ抜け駆けはしないですよ。私と同じ困り方してる人がいるなら、連れていきます。ひとりもふたりも変わんないですから。
「パッとしない」が、そのまま特技として使えるようにしたい。
結論としては、「個人的には、良識も常識も、血反吐を吐きながら得たものなので私は捨てない」ですね。
そこを捨てるやり方もあると思うんですけど、私には無理。
そんな感じ。
朝っぱらから、トバすね。
きょうは早起きしたから。
ばいぶー。