私の思考回路のクセのなかでひとつ、あまりよろしくないものがあります。
それは、「私は『大丈夫』でなくてはならない」というものです。
ここでの「大丈夫」という言葉の内容を補足しますと、「何も考えてないアホみたいにヘラヘラ笑っていられる状態」を指します。
もちろん、大丈夫じゃないよりは大丈夫なほうがいいのですが、問題なのはこの思考のクセには「大丈夫ではない私は、この世から抹消すべきとんでもない害悪である」という感覚がセットでくっついていることです。
大丈夫なときは自分の価値をある程度認めることができ、自己肯定感はけっこう安定しているのですが、ひとたび調子を崩して大丈夫ではなくなったときに、自分に対する強い嫌悪感、憎悪というか、「私などというこの巨悪をあとかたもなく消さなければ」といったような感情が出ます。
また、自分で自分の状態を「大丈夫ではない」と認識することを、わりとつよめに恐れる感覚を持っています。
そのためギリギリまで「まだ大丈夫だから」と自分自身をごまかしてしまい、ある日突然パタリと倒れてしまう傾向があります。
こういった性質を持つに至った原因としては、おそらく生育歴(父親との関係性)がからんでいると思いますが、ここでは元をたどる話は割愛させていただき、未来の話をします。
このような自分自身の歪みや弱さについて、こうやって不特定多数に対して書くことについては全く抵抗がないのですが、こと対面・口頭での吐露となってきますと一転、私はまるでばかもののようにヘラヘラと笑って、いかにも何不自由なくまっすぐ愛されて育ってきて、なーんにも考えてやいないかのようなふるまいをしてしまいます。
私は、自分のつらさや苦しさを過不足なく自分で認め、それを人に吐露することができません。
安心してそれらを吐露できる場所を、いまだ見つけられていません。
いつもヘラヘラ笑っています。
そこには「私よりもひどい育ちをしたり、たいへんな思いをしてきた方もいるのだから、私なんかが「つらい」などと言ったら気を悪くされるんじゃないか」という気持ちがあります。
私が「苦労知らず」とバカにされておけば、それだけで誰も傷つかず、空気も悪くならず、丸く収まるのです。
だから、どこの場所に行っても、どんな集まりの中でも、私は本当の感情は誰にも言ってきませんでした。自分が道化たることが、私の中では正義でございました。
でも、最近、思ったのです。
私だけがそうなら、別にそれで結構。
でも、おんなじように苦しんでる人って、たぶん結構いる。
誰も信じてなくて心を閉ざしてるわけじゃなく、誰にも迷惑をかけないために自分を押し込めて傷つけてる人がたぶん大勢いる。
そういう人たちが、「私だってつらかった」って泣けたら、どんなにいいだろうなあ。
一瞬だけでも、名実ともに「この世でいちばんつらくてたいへんでかわいそうな人」になれたら、私も大暴れしてわんわん泣けたのかなあ。
私たぶん、誰かに、
「大丈夫大丈夫って、何が大丈夫なもんか、ひとつも大丈夫じゃないじゃないかそんなに苦しんで!!!!」
って言われたかったんだろうなあ。気づいて助けてもらいたかったんだろうなあ。
って思ったんですよねえ。
といっても、昔のこと、「こうだったらよかったのに」って言ってても何も変わらないですから。
変わらないものをうだうだ言うよりも、今それを必要としてる人に「大丈夫なんかじゃないでしょ!!!!!!!」って、言ってやらなきゃいかんなあと思う。
その言葉に説得力を持たせるためには、私自身が、「大丈夫ではない自分」のほうも許してやらんとねえ。
こ〜〜〜〜れが難しい。なかなかに難しい。
まずそもそも、大丈夫じゃなくなってきたときに「自分がいま大丈夫ではないこと」を認めるのが難しい。大丈夫寄りで考えてしまいますね。
あと、「大丈夫or大丈夫じゃない」の二択じゃなくて、せめて5段階ぐらいで考えてやったほうがいいね。たぶん。
ねじろは自分自身のカウンセリングルームでもあるんで、まあ、気長にやりますけどね。
とりあえず、向こう1年の目標として「大丈夫じゃない自分にもやさしくしてやること」にしましょう。
大丈夫じゃないので酒を飲みます。
きのこやさし〜い。
大丈夫になりました。
酒はうまい。
ではまた。